おセイさんに、終戦のことを聞いてみる

 ボクは父や母に、戦中戦後のことを聞きませんでした。意識して避けてきたわけではありませんが、まあ興味がなかったのでしょう。こういう話を身近な人から聞いておくことがいかに貴重なことなのか、この年になって初めて気がつきました。もう、遅い。子供や孫たちに伝えてやることもできません。
 かわりに、といってはなんですが、おセイさんこと田辺聖子さんの本から、終戦とその前後の様子を拾ってみます。

『私の大阪八景』 田辺聖子 岩波現代文庫 2000年12月

 おセイさんは、1928年(昭和2年)生まれ。ボクの母貞子は1923年(大正12年)生まれです。
五つ違いですが、まあ似たような境遇にあったものと思っておきましょう。
『私の大阪八景』は、おセイさんの自伝的小説です。おセイさんは、ここではトキコという名の少女として登場します。女学校で、好きだった大場先生がある日、こんなことを言いました。



「英語を使っちゃいけないなんて、バカなことだわ、ね」
と不良少女がイイイ! をするような口つきをして、
「東条首相なんて、インク瓶にヒゲがはえたような顔してるわね。キチガイみたいなことばっかし考えるのね。キライ」
と美しい顔をしかめた。
トキコは大場先生をにらんだ。なぜ先生があの頼もしい口ヒゲの、強そうな軍人のわるくちをいうのかと悲しくなって、
「先生、親米主義ですか?」とツケツケいった。
「いいえ、なぜ?」
と先生はちょっと驚いてトキコを見た。
「そうかて、先生のいいはること、自由主義や」
「自由主義というのはどんなこと?」
「鬼畜・米英の味方するもん、自由主義や」
「ちがうちがう、自由主義というのはね‥‥まァいいわ」

 トキコは純粋培養の軍国少女でした。つまり、トキコ(おセイさん)が物心ついたときには、もう世の中の空気はかなり戦争臭いものでした。
 1931満州事変、1932国防婦人会結成、1933国連脱退、19362.26事件、1938国家総動員法など、トキコ10歳までに起こった出来事です。
 そこへいくと、ボクの母は幼年期に、まだしも平穏な時代の空気を吸っています。この五年の違いはけっこう大きいのかもしれません。

 ここでちょっと話を変えます。
 今これを書いているのは14日の夜ですが、さっきNHKスペシャル「銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ普通の人々」を見ました。
 国防婦人会は、1932年大阪港の近所に住む主婦たちが、出征兵士に湯茶をふるまったことを原点として発足しました。発足当時の会員は40人。それが2年後には約45万人に膨れ上がったといいます。
 婦人たちは割烹着を会の制服として、出征兵士の見送り、留守家族の支援、慰問袋の発送、はては国債の購入運動まで、さまざま活動をおこないました。最盛期には、会員数一千万人近くになったそうです。
 なぜ女性たちは、これほどに活動にのめり込んだのか?

国防婦人会の女性たち。割烹着にたすき掛けが、会服だった。

 女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会は「社会参加」の機会だった、と番組ではとらえています。
 家にあっては、嫁は夫や姑に絶対服従を強いられた時代、外に出て、同世代の仲間たちと語り合い、「社会の役に立っている」と実感することは、大きな喜びだったに違いありません。

『楽天少女通ります』田辺聖子 日本経済新聞社 1998年4月

 人は、ちょっとしたきっかけで、どっと同じ方向に走り出すことがある。そして、その背景にあるもの‥‥なかなかに、考えさせられる番組でした。 

さておセイさんに話を戻します。今度は『私の履歴書~楽天少女通ります』から。 
 ときは1945年(昭和20年)、おセイさん17歳になっています。
 この年、3月13日、第一回の大阪空襲が行われました。
 その直後、町内会長であるおセイさんの父の元に町内の男たちが集まりひそひそと話し合っています。

 <防火砂、火叩き、バケツ、あんなオモチャが何になりまんねん。焼夷弾が落ちる合間にどかーんと、今度は爆弾やよってな。>
 <そこへ機銃掃射でやられるらしおます>
 と、口コミの情報は早かった。
 <こら、もう、あきまへんデ。日本、バンザイでんな>
 というのは降伏という意味。
 <あない敵機来る、ということはこっちの飛行機が無うなった、ということや。高射砲は中らへんし、日本の軍隊も頼りないことわいな、威張るわりには力おまへんがな>
 とお巡りさんが聞いたら<ちょっと来い>といわれそうなことを放言する人。ニセの診断書を徴用先の工場に提出してさっさと田舎へ逃げる要領のいい人もいたが、みながみな、小器用にたちまわれたわけではなく、楽観的な父が、
 <この裏まで焼けたんやから、もうここらは空襲来まへんやろ>
というのへ、そうでんな、とはかない空だのみしか、すがるものはなかった。

 ここに集まる男たちは、柔軟というか、ええかげんというか、現実的というか、要は町のおっちゃんです。
 戦時下にあっても、住む場所、境遇、ちょっとした時間のずれなどで、いろんな考えの人が存在するということは、心にとめておいてもいいかもしれません。

 さて次は玉音放送の場面です。長くなりましたので、これで終わりにします。もう少しお付き合いください。

 終戦の詔勅の放送はその尼崎の家で、一家五人が聞いた。祖母は疎開していた。
 はじめて聞く<現人神>の肉声は異次元からの合成音のように浮世離れしており、その上、漢語が多くて理解の外だった。父と母は、
 <降伏、いうてはるのやないか>と顔を見合わせあい、私と弟は、
 <そんなことはない、絶対、一億みな全滅せよ、いうてはるのや、最後の一戦、いうてはる>と力んだが、しかし詔勅の内容はそうではない方向へ、どんどん逸れていくようである。そのうち、
 「堪へ難キヲ堪へ、忍ビ難キヲ忍ビ」
 でわたしもさすがに事情を理解した。日本は、まえに父たちが危惧していたごとく、<バンザイ><お手上げ>をしたのである。そのことよりも私は、実在であって実在でないような<現人神>の肉声を聞いてしまったことが、取り返しがつかないような痛恨であった。陛下は現身を持つかたでいられたのだ。

  玉音放送の場面は、テレビでもしばしば出てくる。皇居前広場で正座をして涙を流す人たちの映像もよくあらわれる。
 ボクの父や母はどのように聞いたのだろう。
 そのことさえ、聞いたことがない。  

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2件のコメント

  1. 私は小学校の課題でおばあちゃんに戦中の生活について聞いたことがあります。
    覚えているのは2つの質問と答えだけ。
    「どんな物を食べていましたか。」→「お芋の根っこや大根、ふすまを食べていた。」
    「終戦の時にどう思いましたか。」→「やっと終わったと思ってすごく嬉しかった。戦争はいい事ない。」
    他にも聞いたのだろうけど、覚えていません。
    おじいちゃんからは、馬に乗っていた?馬の世話をしていたとか、満州に行ったけど戦争には参加しなかったとか……。
    これはおじいちゃんの話なのだろうか?うろ覚えではっきりしないのです。

    1. そうか、そんな話を聞いたことがあるのね。
      終戦のとき、貞子さんは22歳。いい時期を戦争でつぶされちゃったんやなあ。
      おじいちゃんは、馬には乗ってないと思うよ。下っ端だから。
      満州へ行ったことは聞いています。
      旧陸軍に二等兵で入営して、毎日の訓練、そして兵営内では古参兵にどやされる。
      よっぽど、つらかったらしいよ。
      ボクだったら、絶対に無理。だから戦争は、どんなことがあっても、NOだね。

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