1379年前の相撲見物

秋七月の甲寅の朔壬戌に、客星月に入れり。乙亥に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗たまう。乃ち健児に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹岐が門を拝す。

 これは『日本書紀』皇極天皇の元年(642年)の記述です。
 壬戌 は 二十二日。
 つまり、いまから1379年前の 七月二十二日。百済からの使者智積(ちしゃく)と、百済の王族で日本に亡命中であった翹岐(ぎょうき)をもてなす席で、健児(ちからびと)たちに相撲を取らせた、というのです。
実はこれが、日本で相撲という言葉が現れる最古の文献です。 

角抵塚壁画。中国吉林省集安県

 『力士漂白』の宮本徳蔵氏によれば、相撲は二、三世紀頃、アジアの北辺、現在の地図でモンゴル共和国のあたりで生まれたのではないかとのこと。(もちろん、相撲という言葉もルールもまだない)それは、やがて東へ西へと彷徨を始め、五世紀はじめには古墳の壁画となって出現します。
  ここは、高句麗古墳の角抵塚。現在の、中国吉林省集安県。二人の力士がはげしく取り組みあっている。右側には、行司のような老人。

角抵塚 のすぐお隣にあるのが、舞踊柄。ここの壁画は、おお、なんとこれは「三段がまえ」です。
「三段がまえ」こそは、相撲の技術のすべてを含み込んだといわれる、型の精髄なのです。
 写真は、1985年1月横綱千代の富士と北の湖による「三段がまえ」。どうです、そっくりでしょう。

7月19日(日)大相撲名古屋場所、千秋楽。白鳳、照ノ富士全勝対決を白鳳が制して、45回目の優勝を勝ち取りました。
 この相撲は、ニュースで見ました。白鳳の相撲は何かと批判があるところですが、今回に限り両者ともに立派であったと、ボクは思います。「いまの力のすべてを出し切ろう」そういう気持ちが出ていたと思います。白鳳、照ノ富士ともに、どん底からのグレート・リカバリーです。「よくやった」

 いつの間にか、オリンピックは始まっています。アスリートたちのことを考えれば、5年間磨き上げた技・力・心を存分に発揮できるよう、無事・スムースな進行を願わずにはいられません。
 もちろん、終わりよければすべて良し、ではないですが。

1993年9月 新潮社 長谷川明
1985年12月 小沢書店 宮本徳蔵

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