奇妙な工作物

 何回か写真を撮りなおしているのですが、どうもわかりにくい。なんせ、狭いところなので‥‥。

ペン、鉛筆など3本まで収納できる。

 いちおうペンホルダーといいますか、ペン、鉛筆などを置いておく装置です。場所は、実はトイレなんですが、その状況がわかりにくい。

 トイレにも何冊か本を置いています。(昔からの習慣)時々、本に印をつけたくなるなるので、ペンの置き場をつくろう、と。
 ふとそのとき、いたずら心が浮かびました。長細い角棒の先にペンホルダーってのはどうか?それで、こんなものができました。実際には、なかなかシュールなものでっせ。

 まあまあ時間はあるものですから、こんなものを次から次へと作っておりました。すると、端材がいっぱい出てくる。それを見ていると、どうにかしたくなってきて、先ほどのペンホルダーみたいなのができたわけです。

本物の笹とは似ても似つかぬが‥‥どうなるかな

 それではこれは、なんじゃらほい?
 7月7日、七夕の笹のかわりです。ここに、短冊を吊り下げてみようというんですが、どうでしょう?

宇宙への帰還 立花隆さん

 立花隆さんが4月30日に亡くなっていたと、今日(6月23日)近親者から発表されました。
80歳。死因は急性冠症候群。

 ボクが立花さんの本と出会ったのは、たしか一冊目が『アメリカ性革命報告』。どんな内容だったかすっかり忘れましたが、すっごく面白かったことだけは覚えています。
そして次に読んだ『宇宙からの帰還』で、決定的に立花ファンになってしまいました。

2013年撮影(朝日新聞記事より)

それから読んだ本は、

『「知」のソフトウェア 』
『脳死』
『同時代を撃つ 情報ウオッチング』
『サイエンス・ナウ』
『サル学の現在』
『臨死体験』
『ぼくはこんな本を読んできた』
『インターネット探検』
『立花隆の同時代ノート』
『天皇と東大』
(クリックしてご覧ください)
『小林・益川理論の証明』
『死はこわくない』‥‥

で、本棚から、立花本を探してみたのですが、出てきたのはこれ、
『宇宙からの帰還』一冊だけでした。

 引越しの時、処分してしまったんですね。もったいなかったかな? 
まあ、仕方がないでしょう。
 では、一冊だけ残った『宇宙からの帰還』を、ちょっとだけ読んでみることにしましょう。
ごらんのとおり、ずいぶんと付箋が貼ってあるでしょう。熱心に読んだんだねえ。この本の発行は、昭和58年。ボク、35歳。若かったね。

中央公論社 昭和58年1月

 う~ん、これは、いやはや、やっぱり面白い。例によって、ボクは本の内容をすっかり忘れていましたが、いまパラパラと拾い読みをしただけで、1ページ1ページが掴んできますねえ。
 少しだけ、エピソードをご紹介しましょう。
 この本のメインメッセージは、「宇宙体験は、宇宙飛行士たちに帰還後どんな影響を与えたか?」というもの。
 たとえば、アポロ15号のジム・アーウィンは、とりわけ信仰心の強い人ではなかったのに、宇宙から帰ると、月面上で神の臨在を感じたとして、NASAをやめて伝道者になってしまいました。この関係の話はもちろん面白いのですが、いまはやめておきます。
 かわりに、事故の話をします。
 この本を読んで(パラパラ見て)驚いたことの一つは、宇宙船の中では事故がしょっちゅう起こっているということです。

 アポロ15号が月に向かって飛行を続ける中で、二つの事故が起きました。
一つは、月着陸船の計器のガラスが、何らかの衝撃で割れてしまいました。計器の機能自体には問題はなく、地上でなら落ちたガラスを掃除すればすむのです。
 しかし宇宙では違います。ガラス破片は落下せず、そこらじゅうを漂っているのです。うっかりすると、空気と一緒に吸い込んで、肺を傷つけてしまいます。これを処理する唯一の方法は、粘着テープでガラス片をくっつけて回ること。三人の飛行士たちは、この作業を二日間続けたのでした。

 次に起きた事故は、水の消毒装置から水漏れが起きたことでした。
漏れた水はボール状になって、どんどん膨らんでいきます。水は貴重品なので、深刻な事態です。宇宙飛行士たちは、いくつかの方法で修理を試みましたが、うまくいきません。
その間に、ヒューストンでは専門家が対策を検討し、こういう指示をだしました。
 「道具箱から、道具ナンバー3と、道具Wを取り出せ。ナンバー3をWのラチェット歯車に取りつけよ。次にそれを塩素注入口の六角形の穴に突っ込み、しっかり押しつけながら、四分の一回転させろ」
 この通りにすると、水漏れはピタリと止まったのでした。宇宙船側では原因も解決方法もわからなかったのに、ヒューストン側ではそのどちらも解明できた。それくらい、宇宙飛行は地上でよく管理されているのです。

アポロ15号。月面に降りたった宇宙飛行士。

 アポロ14号では、二時間後に月面着陸を開始しようというときに、突然コンピュータパネルに「計画中止」のシグナルが出た。これを見て、宇宙飛行士もヒューストンもあわてふためきました。
このシグナルが出ると、降下は自動的に不可能になるのですが、いくら調べても原因がわからないのです。
そのとき飛行士のひとりミッチェルは、ふと、子供の頃、ラジオが故障したときによくやったように、コンピュータの横腹を手でドンと叩いてみました。すると、なんと「計画中止」のシグナルが消えたではありませんか。
こうしてギリギリの状況でしたが、月面着陸を行うことができました。

 日本のはやぶさ1号もそうでしたが、宇宙ミッションは、次々に起こるアクシデントとの闘いなんだなあと、あらためて思いました。

 さて、新聞記事にもあるとおり、立花さんは「知の巨人」と言われています。博覧強記。他にも「知の巨人」と呼ばれている人の顔が3、4人浮かびますが、立花さんのような取材力を併せ持つ人は、見当たりません。
これこそが、立花隆の仕事を際立たせている力の、源泉といえるのではないでしょうか。

「パートジャーナリスト、パートヒストリアンでなければならない」と立花さんは言う。

この本の「むすび」の中で、立花さんはこんなことを書いています。

私がこれまでにしてきたさまざまな仕事の中で、この宇宙飛行士たちとのインタビューほど知的に刺激的であった仕事は数少ない。(中略)宇宙飛行士たちにとってもそうであったらしい。かなり多くの人が、「こんな面白いインタビューははじめてだ」「こんなことを聞かれたのははじめてだ。よく聞いてくれた」「いままで人に充分伝えられなかたことをやっと伝えられたような気がする」などといってくれた。

 宇宙飛行士たちは、自身さえおぼろげにしか理解していなかった、体験の「意味」が明らかになったことに感動し、感謝したのでしょう。立花さんの取材力、中でも「準備の周到さ」「視点の良さ」をボクは感じます。

開門、開門じゃ~

かれこれ2か月ぶりです。緊急事態措置の解除にともない、池田城址公園の扉が開きました。(6月21日)
開園早々、ちょっと様子を見に行ってきました。

こちらは、東側からのアプローチ。いちおう正門にあたります。本日は朝9時開園。

さいわい、本日はよい天気。開園まもなくですが、次々と人がやって来ますね。とはいえ、この公園はふだんから、「密」になるほど来場者が詰めかけるということはありません。ほどほど、というのがこの公園のよいところ。

「うーん、まことに気持ちがよいのう。ここからの眺めは、格別じゃ。鯉たちも、この日を待ち望んでいたことであろうよ」
「しかし殿、油断は禁物ですぞ。いつまた敵が、いやコロナが来襲するやもしれませぬ」
「むむ、難儀なことじゃのう」

さて気になる八つ橋ですが、ちゃんと手入れはしてあったようです。
しかし、残念ながら花はもうおしまいですね。わずかに、白いのが2輪ばかり残っておりました。
杜若たちは、閉園の間、誰に見られることもなく、ひっそり、悠々と、咲き誇っていたのでしょうか。

なんでやねん 陶芸家 辻村史朗の世界

「なんでやねん」辻村史朗の口ぐせ。
窯から出した茶碗を手に、考え込む。
なんでこの発色になるのか、なんでこうなるのかがわからない。わからないから、おもろい。おもろいから、またやるしかない‥‥

没頭する。そして、せっかちである。目の前しか見ない。面白くてたまらない。

NHKプロフェッショナル「陶芸家・辻村史朗」を見ました。
辻村さんは、現在74歳(ボクより一つ年上)、奈良在住の陶芸家です。
誰にも師事をせず、習ったこともない独学の陶芸家でありながら、その作品はロバート・デ・ニーロをはじめ多くの海外セレブたちから愛されているという。またメトロポリタンなど有名美術館がこぞって作品を所蔵しているそうです。

ボク、知りませんでした、この人。関西弁でポツポツしゃべる、なかなかおもろいおっちゃんですよ。
若いころは怖がりで、引っ込み思案の少年だったらしい。画家を目指して上京するも、受験に失敗。何をしてよいかわからず、禅の修行をしたりする。あるとき、美術館で出会った一つの茶碗が、彼の人生を変えた。

「陶芸のことも、お茶も知らないときにそれをみたときに、もっと達成されているような、そういうもんを感じた」「禅をしている人よりもこの人の方が、修行ができているなって思った」

このとき、辻村さんは21歳。時を同じくして、やはり芸術の道を志す少女三枝子さん(当時18歳)との出会いもありました。
たちまち、二人は結婚。故郷奈良の山奥に安い土地を買い、作陶を開始します。古材を譲り受け、家は自分たちでつくることにしましたが、それまでの間はテント暮らし。
「さっぶい、さっぶい。マイナス16度でした」

井戸を掘り、自生する野草やキノコを採り、畑で野菜を育てて暮らす。そして、作陶。
現金が必要になると、出来上がった茶碗を並べて田んぼの畔で売っていました。

やがて、ふとしたことからパリの美術館から作品が買い上げられます。すると次々と、海外から辻村に発注が来るようになりました。
辻村さんは、日本でより海外で有名な陶芸家となったのです。

「荒々しさと、静けさが同居している」辻村さんの作品を評して言われる言葉です。
無骨なように見えて、実は繊細。その混ぜ具合というか、コントロールの加減がむつかしいんだと思います。

驚くほど荒々しく、そして静寂。矛盾する二つの要素が一つの作品の中に溶け合っている。

プロフェッショナルとは?
番組お決まりの問いを辻村さんにすると、こんな答えが返ってきました。
「身体が動くかぎりは作れるという、ものすごくええ仕事‥‥仕事やない、遊びをしてる。遊びはアマチュアや。プロフェショナルやないねん」

ありがとう

 ときどき買いに行く、手作りの豆腐屋があります。

 ボクの家から歩いて6、7分。ここの店主はおそろしく無愛想で、ボクが買い物を選んでカウンターの上に置くと、それをビニール袋に包み、あっちのほうを向いたまま黙って釣銭をよこします。いまだかって、一度も口をきいたことがありません。

 味のほうですが、手作りということで最初は期待したのですが、正直言ってさほど旨いとは思えません。もっともボクはただの豆腐好きであって、特別に良い舌を持っているわけではないので、何とも言えませんが。

 ところが、ある食べ方をしたとき、はっきりと他の豆腐との違いが現れました。

 まず、重しをして一時間ほど水抜きをします。それから、5、6ミリ幅くらいにスライスして、オリーブオイルをちょっと垂らし、塩(天日干しのもの)をパラっと振りかける。これだけです。

だいたいはオリーブオイルと塩だけで。気が向いたら、粉チーズやバジルなどをトッピング。

 これをやった時、スーパーで買ってきた豆腐との違いがわかりました。チーズのような食感、そして甘味が増幅して現れました。これは旨い。以降これを食べたくなったら、ボクはこの店に足を運んでいます。

 さて今日もこの店に行きますと、店の中に一人の男性客がおりました。客というより、どうやら店主の友人か知り合いのようです。

 いつものようにボクが勘定をしようとすると、なんと店主が初めて「ありがとう」と言ったのです。

 えーっと、ボクは内心びっくりしながら店を出たのですが、考えてみるとあれは、知り合いの男性客にアピールしたのでしょう。

 「おれだって、客に挨拶くらいはしてるんだぜ」と、そういいたかったのでしょう。 
 くっくっ、あの「ありがとう」はよかったな。帰り道、ボクは笑いが止まりませんでした。 

あの虫はなぜ嫌われる?

あの虫とは、言わずと知れたG=ゴキブリです。
いまボクが住んでいるマンションは、入居1年半ですが、その間に2度出没しました。アース・ゴキプッシュプロでシュッとやりましたら、その後は出ておりません。

なぜこの話を持ち出したかといえば、この本『犬のことば』を紹介したいからです。この本の中に、「ゴキブリはなぜ嫌われるのか」という一章があります。
著者の日高敏隆さんは、日本の動物行動学の草分け的存在であり、科学エッセイストとして重要な一人です。また、コンラート・ローレンツの訳者としても知られています。

本題に入る前に脱線しますが、ボクが学生のとき、一年先輩にTさんという人がいました。Tさんは、研究のために自宅でゴキブリを飼育していました。申し遅れましたが、Tさんもボクも学校では心理学の専攻です。
えっ、なぜ心理学の研究にゴキブリが必要かって?
行動主義の心理学では、ラットなどの動物を使って実験を行うのです。報酬(餌)の有無や、罰(電気ショックなど)の有無での、刺激と反応を観察します。人間の心理も、究極は「刺激→反応」という単純な図式に還元できる、と考えるのです。
ラットなどの実験動物は個人で飼うにはお金がかかるので、Tさんは代わりにゴキブリを飼っています。

「千匹以上いると思う」Tさんは言います。家の前に立つだけで「ブ~ン」と羽音が聞こえてきます。
Tさんの家はボクの下宿のすぐ近くなので、「寄っていけ」というのですが、ボクは怖くて入ることができませんでした。

さて、「ゴキブリはなぜ嫌われるのか」日高先生の本を読んでみましょう。

けれど、ぼくがふしぎでならないのは、どうしてゴキブリがこんなに嫌われるか、いいかえると、人間のとくに女はゴキブリをなぜこんなに嫌うのか、ということである。(中略)
もちろん、理屈のつけようはいくらでもある。あの平たい姿がイヤ。おまけにそれがす早く、ガサガサガサッと走るのがイヤッ。油ぎったあの感じがイヤッ。足が毛むくじゃらみたいなのがイヤッ。くさいからイヤッ。きたないからイヤッ。
このような理屈は、つづけていくとだんだんに説得力がなくなる。平たいのがザザッと走るのはたしかに不気味だが、足なんかがどのようになっているか、そんなによく見えるはずがないし、ゴキブリは走っているだけでにおうほどの悪臭は発していない。きたないかどうかは、まったく主観と情況の問題だ。(中略)
なんでわざわざ長々とこんなことを論じたかというと、「ほら、ゴキブリ!それ殺せ!」という反応は、いわゆる偏見にほかならないからである。

う~ん、偏見ですか。確かにね。論理的に攻められると、ゴキちゃんが他の昆虫と全然違うというわけではないんですが、でもやっぱりイヤッですよ。ボクは。

この本『犬のことば』には、もちろんゴキブリの話だけじゃなく、動物や虫たちの面白い話がいっぱい詰まっています。少しだけ紹介します。

ホタルはなぜ光るのか? 

アメリカのあるホタルについての研究なんですが、このホタルは地面に近いところを、波型に飛びます。波の谷から谷までの間は、時間にして6秒。雄はこの谷に近づくたびに、2分の1秒間黄緑色の光を発し、それとともに急上昇する。するとそこにJ字型の光が浮かび上がる。これがプロポーズのサインだというんだから、イキなもんじゃありませんか。

蝶はひらひら飛ぶ。

これも求愛行動のお話です。蝶の雄は、雌の翅の色を目印にして、配偶者たる相手を探します。ところが蝶はあまり眼がよくないんですね。あまり遠くのものは見えない。で、たとえば1枚の葉がさえぎっても、もう雌の姿は見えなくなってしまう。どうする?
そこで、ひらひらと舞いながら、すこし上から見たり、斜めから見たりするんです。それと同時に、お互いが見つけやすいように、翅は大きいほうが好ましい。そのため彼らは「二つ折りのラブレター」となって、ひらひらと飛んでいるわけです。(日高先生、うまいこと言うなあ)
こんな話がいっぱいです。このへんにしておきます。

ニューヨークのホテルで

 夢を見ました。とても短い。
ロビーでお茶を飲んでいました。
すると、外国人の男性がやってきて、こう言ったのです。

「ある人に頼まれて来ました。その人は昔ニューヨークのホテルで、あなたにお世話になったそうです。お礼にこれを受け取ってほしいとのことです」

 男は、紙に包んだ小さなものをテーブルの上に置きました。
それは、銀色に鈍く光っています。何かの鉱物、宝石の原石のようです。
「これは?」
「さあ、知りません。かなりの値打ちものだそうですよ。では」
男は行ってしまいました。

 これで目が覚めました。ニューヨークへなど行ったことがないのに、夢の中では、「ああ、あのときの」などと調子よく考えていました。
あれは、カーライルホテルだったかな?

尾形光琳と城跡公園(池田)の、ある関係

今日、6月2日は光琳忌です。
尾形光琳(1658年生れ)は、「琳派」の名の由来となった天才芸術家。
もっともご本人は、「俺が琳派の元祖だぞー」などと思っていたわけではなく、「琳派」とは後世の人がテキトーにつけた名前にすぎません。
琳派の面白いところは、それぞれの芸術家が師弟関係にあるのではなく、「私淑」という関係で結ばれているということです。光琳は、自分より約100年昔の絵師俵屋宗達にあこがれました。
宗達といえば、あの「風神雷神図」で有名ですね。
光琳はことに、その宗達の大画面構成に惹かれました。
「いったい、この大胆さは何だろう?」「この凄みはどこから来ているのか?」「どうしたら、それを乗り越えることができるのか?」
屏風などを次々に模写しては、宗達との特性の違いを認識し、自分が真に求めているものをつかもうとしたのでした。

紅白梅図屏風 二曲一双 国宝 MOA美術館所蔵

そうして生まれたのが、傑作「紅白梅図屏風」です。光琳がこの絵を描いたのは、最晩年のころ。宗達をリスペクトする気持ちと、光琳の研究・研鑽の結晶がこの絵です。

さて、光琳と城跡公園と、ちょっとだけ関係がある(まあ、無理やりですが)というのが、こちらです。

「八つ橋図屏風」

八つ橋図屏風 六曲一双 メトロポリタン美術館所蔵 光琳50代前半頃の作品

八つ橋のモチーフは、絵画だけでなく工芸品にも

「紅白梅図屏風」や「風神雷神図屏風」「竹梅図屏風」と並んで、光琳の最高傑作のひとつですが、ここに描かれている八つ橋が城跡公園にあります。そして、杜若(かきつばた)も。

これは去年撮影した写真。今年はどうなっているのやら。いまは入ることができない。

杜若と菖蒲の区別がボクにはわかりませんが、水を張って植えられているので、たぶん杜若でしょう。
なぜ八つ橋が、そして杜若がここにあるのかは知りませんが、とにかくあるんです。光琳の「八つ橋図屏風」の世界がここに。季節も、ちょうど今頃。

ところが、です。またもや、休園延長となりました。
どうなってるかなあ?
ちゃんと、花を咲かせているんでしょうか。

緊急事態宣言解除!?──残念。これは去年の今頃のお話

2020年5月25日 朝日新聞(夕刊)
「戻ってきた いつもの朝
      久々の出社 気持ちいい」

週明けのJR大阪駅前。出勤風景が戻ってきた。

なんと、心おどるような見出しではありませんか。この日(25日)コロナによる緊急事態宣言が、大阪、京都、兵庫の3府県で解除されました。
派遣社員の40代女性はインタビューに答え、「出勤の光景がコロナ前に戻ってきているようでうれしい」と喜びを表しています。
ここまでは、よかったんですよね。

もうひとつ。記事を見てみましょう。
2020年5月26日 朝日新聞(朝刊)

4月11日をピークに新規感染者数は減ってきた。このグラフを見れば、もう安心と思ったが‥

「日本は抑え込みに成功したのか」
やや懐疑的な口調ながらも、「感染者・死者数が世界に比べると少ない」「マスク文化が奏功」と、一応は安心感が伝わってきます。
第一、上のグラフが視覚的に訴えていますね。全国の新規感染者の推移ですが、これを見てホッとしたものです。このころ、吉村株も上がりっぱなしでした。
しかし記事をよく読んでみると、海外のメディアはいずれも疑念を伝えています。
米誌フォーリン・ポリシーは、日本のコロナ対策について「何から何まで間違っているように見える」と指摘し、「日本がラッキーなだけなのか、それとも優れた政策の成果なのか、見極めるのは難しい」との見方を示しています。
オーストラリアの公共放送ABCは、「不可解な謎」と題して、罰則を伴わない緊急事態宣言など日本の対策を「大惨事を招くためのレシピのようだった」と表現。
また英国BBCは、「ドイツや韓国に比べると、日本の検査件数はゼロを一つ付け忘れているように見える」と報じました。

このときから一年。
いまさらこんな記事を見たって、と思われるかもしれませんが、時間が経ったから見えてくるものもあるというものです。
後世の歴史家から見ても、この一年は重要なターニングポイントになる? かもしれません。

片岡秀太郎さん さらば

歌舞伎俳優の片岡秀太郎さんが、23日亡くなられました。(79歳)

ボクが秀太郎を意識し始めたのは、いつ頃だったか? 
1999年(平成11年)に、ボクは松竹座で二代目鴈治郎17回忌追善公演を見ています。忠臣蔵九段目山科閑居の場で、秀太郎は由良助妻お石を演じました。鴈治郎演じる戸無瀬に一歩も引かず渡り合うお石は、まったく貫禄十分でした。

山科閑居の場 大星由良助妻お石

若いころの秀太郎は、繊細すぎ、陰気になりがち、などと言われたこともあったようですが、このころはもう一本芯がしっかりと入った役者さんでした。(などと、生意気なこと言ってごめんなさい)

姫、遊女、女房、奥方など、どんな役でもこの人が演じると舞台が締まり、安定するような気がします。

お父ちゃんの13代目仁左衛門さんとおなじく、「だんだん良くなる」型の人だっただけに、享年79歳はまだ惜しい。

義経千本桜 静御前
寿曽我対面 大磯の虎
忠臣蔵六段目 一文字屋お才

それから、秀太郎さんは、いまテレビなどでひっぱりだこの片岡愛之助さんの養父でもあります。愛之助さんは、5歳のときに松竹芸能の子役オーディションを受けたのですが、その様子をみていた秀太郎さんが、愛之助9歳のときに歌舞伎界にスカウトしました。

そしてついに愛之助高校3年生のときに、秀太郎と養子縁組をすることになったのです。

歌舞伎界では、いわゆる「血筋」の人でないと、大きな役をもらうことはありません。愛之助今日の活躍は、秀太郎さんのスカウト、養子縁組の決断あったればこそ、というわけです。