東海道四谷怪談


 歌舞伎の怪談物といえば、まず真っ先に名前があがる名作演目です。さる3月27日にNHKテレビで、録画放送されました。なんと今回は、片岡仁左衛門の伊右衛門、坂東玉三郎のお岩という、超豪華ゴールデンスペシャル配役なんです。おそらくは、もう二度と見られないでしょうなあ。

 ここでちょっと内輪のお話なんですが、ボクの母親(貞子といいます)は、ボクがおなかの中にいるときに四谷怪談を見に行ったというんです。それで姑さんに「あんた、いったい何考えてんねん」と、こっぴどく叱られたそうです。
 そらそうですわな。昭和の22年といえば、いまより何倍も胎教といったことにはやかましかったでしょうに。
 「さて、どんな子供が生まれてくるのやら」と、周りはみな心配したといいます。
 しかし、ボクはこの話を案外気に入っています。貞子さんも、この話をするときは、何だか楽しそうでした。

 ご存じの方も多いと思いますが、四谷怪談のあらすじをザっとご案内しましょう。

《四谷町伊右衛門浪宅の場》

民谷伊右衛門(たみやいえもん)は、元塩谷家の家来。この狂言は、忠臣蔵外伝ということになっている。

 浪人民谷伊右衛門(片岡仁左衛門)は、不良浪人で実に悪いヤツなんですが、イケメンでそこそこ腕っぷしも強く教養もありそうにみえる。外面はなかなかに魅力的な男です。ましてや、演じるのが仁左衛門丈とくれば、どうです、傘貼りの内職中の姿だって、カッコいいでしょう?
 女房のお岩(坂東玉三郎)は産後の肥立ちがわるく、このところ病がち。それを見て伊右衛門は、「ちぇ、鬱陶しいやつだ」と内心思っているわけです。
 民谷家の隣人に伊藤喜兵衛というお金持ちの老人がいます。この喜兵衛の孫娘お梅が、伊右衛門に一目ぼれ。何とか一緒になりたいものと、恋情を募らせます。その伊藤家から使者がやってきました。お岩さんへのお見舞いと、薬を置いて帰ります。その薬を飲んだお岩さん、顔半面が腫れあがり、二眼と見られぬ醜い姿に。鏡を見て「あれ~」と仰天するお岩さん。

《伊藤家内の場》

お岩と別れてお梅をもらってくれとは、何とも勝手な頼みごとをする伊藤喜兵衛。

 伊藤家に招かれた伊右衛門は、喜兵衛から、お岩と別れお梅と一緒になってくれと頼まれます。喜兵衛は、孫娘のお梅を溺愛しているのです。
 いったんは断った伊右衛門ですが、チャリンと小判の音を聞かされ、「就職の世話もしてあげるよ」とささやかれ、さらには、さっきお岩さんに届けた薬は毒薬だよと聞かされて、とうとう承諾する。(内心ニンマリ)
 家に帰った伊右衛門、お岩の顔を見てぞっとします。「オレ、お梅といっしょになるよって、バイバイ」と、非情なこと。
 お岩は悶え苦しんだ挙句、置いてあった刀が首に刺さって死んでしまいます。伊右衛門は、お岩と小平の遺体を戸板の裏表に括り付けて川に流します。(小平は下男。盗みを働いたというので殺してしまう)伊右衛門は伊藤家の婿に入りますが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡します。

《本所砂村隠亡堀の場》

堀を流れてくる戸板。縄で引っ張っては感じが出ないので、お弟子さんが背中に乗せて運んでくるそうだ。

 退屈しのぎに夜釣りにやっていた伊右衛門。どこかから、自分を呼ぶ声が聞こえます。不審に思い川面を見ると、あの戸板が‥。
 戸板を引き寄せてみると、お岩の幽霊が「うらめしや~」。くるりと戸板が裏返って、今度は小平の幽霊。これが有名な「戸板返し」の仕掛けです。
 言い忘れましたが、この芝居の作者は、あの鶴屋南北。このときお岩を演じたのは尾上菊五郎ですが、戸板返しの仕掛けがどうも呑み込めない。そこで、南北が菊五郎宅へ説明に行ったそうです。南北が懐から紙で作った戸板返しの模型を取り出して説明すると、菊五郎ようやく腑に落ちて「いいね」といったとか。
 このあと、芝居はもう少し続きますが、今回の放送はここまででした。ボクは怖がりなので、怪談はあまり好むところではありませんが、仁左衛門さんはやっぱりよろしますなあ。「色悪」の魅力たっぷりです。御年78歳。お元気なうちに、もういっぺんくらい、観に行きたいものですが。 

ヒトは人を超えるのか?

 NHKの番組「ヒューマニエンス」を見ました。1月25日放送『ヒトとマシンの融合 サイボーグ』。
 今日は筑波大学大学院教授の山海先生がメインゲストです。
山海先生といえば、ロボットスーツ「HAL]の開発者として有名ですが、いま先生が示しているのは、埋め込み型の人工心臓。

 当初はドナー待ちの患者のための、「代役」として開発されましたが、あまりに性能が良く、このまま永続医的に埋め込んで使用という選択もできるようになりました。近い将来、心臓が原因で死ぬ人はなくなるのではないか、といわれています。死亡を確認する「心肺停止です」という言い方もなくなるかもしれません。
 面白いのは、人工心臓を装着して動かしているうちに、弱っていた心臓がリズムを取り戻し、再び活発に動き始める例があるということ。人体の不思議ですね

 もう少し身近な例で、最近大きな成功を収めているのが「人工内耳」です。人工内耳は、手術で耳の奥に小さなチップを埋め込み、音をマイクで拾って耳内に送ります。補聴器でも効果が得られない難聴でも、聞こえるようになることということです。

 しかし実は、人工内耳の可能性はこれだけではありません。集音マイクの部分は、いわば「性能無限大」。普通の人間には聞こえないような周波帯の音を聞こえるようにする設定も可能です。たとえば、人間には聞こえない「犬笛」の音を聴いたり、クジラが発する信号音が聞いたりもできるかもしれません。
 また、ブルートゥースの音を選択的に聞く設定も可能。授業中や会議中に、知らん顔して音楽を聞いている、てなことも、今まで以上に目立たずに行えるんですね。これは、人類の能力を超えていく、という意味で、まさしくSF的なサイボーグ化事例といえそうです。

 もっと極端な、SF的事例を紹介しましょう。こちらは、ロボット工学博士のピーター・スコット・モーガン。
 4年前に、彼はALSを発病、余命2年であることを宣告される。これを聞いてピーターさんは、思い切った行動にでた。つまり、生命維持に必要な機能をすべてマシン化しようというのです。

 食事と排泄は、背中に背負ったポンプの働きで処理をする。呼吸は、酸素のチューブを気管に直接接続する。コミュニケーションは、ALSでは顔の筋肉が動かなくなるので、スクリーン上に3Dアバターを出現させることにした。言葉は、目線によってパソコンに打ち込み音声に変換する。
 脳を除くほぼ全身がサイボーグ化する。SFではないんですね。

 このプロジェクトには、親族・友人らが全面サポートし、アメリカの半導体メーカー、中国のパソコンメーカーなども支援をしています。下のイラストは、ピーターさんの描く未来の自分の姿。この状態を彼は、ネオヒューマンと呼びます。少し前までは空想でしかなかった新しい人類が誕生しつつあるのです。

近頃の読書から

初見参 村上春樹ワールド

 ボクは村上春樹さんの小説を読んだことがないのです。
「食わず嫌い」ですかね。まあ、それほど意識して避けてきたわけではないのですが、あえていえばタイトルに少々違和感を覚えたのかもしれません。『ノルウエイの森』『羊をめぐる冒険『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』なんて、なんかチャラチャラしとるのう、と。
 このたび、天の声が聞こえてきました。
「チャラチャラしとるのは、あんたのほうや。とにかく一冊読んでみたら?」
 声がしたのは、本棚のほうからでした。そうです。読んだことがないのに、我が家の本棚には、村上春樹本がけっこう揃っているのです。もちろんこれはケイコが残していったもの。ほな、読んでみよか。

『海辺のカフカ』村上春樹 平成14年9月 新潮社

さてそこで、今回選んだのは『海辺のカフカ』。

 読んでみた感想。一言でいいますと、「けっこう、ボクに合ってるんじゃないの」というもの。まず、読みやすいです。これは、深くも読める(たぶん)し、さらっと読み飛ばすこともできるということ。

 カフカという少年が出てまいります。
東京在住。15歳の誕生日、彼は家出をする。父に反発、書斎から現金40万円を拝借して、深夜の長距離バスにのる。行き先は四国の高松。途中でのいくつかのエピソード。いわゆるロードムービーですな。ついた先は小さな、そして不思議な私設図書館。
  一方、ナカタさんという、けったいなおっちゃんが出てまいります。

「こんにちは」とその初老の男が声をかけた。
猫は少しだけ顔をあげ、低い声でいかにも大儀そうに挨拶をかえした。
年老いた大きな黒い雄猫だった。
「なかなか良いお天気でありますね」
「ああ」と猫は言った。
「雲ひとつありません」
「‥‥今のところはね」
「お天気は続きませんか?」

 ナカタさんは、なんと猫語がわかるのだ。人に頼まれて、行方のわからなくなった猫を捜索することで生計をたてている。
このナカタさんも、ひょんなことから、四国を目指すことになる。手段はヒッチハイク。
 この二つのストーリーラインが、同時並行するわけですが、二人はどこかで出会うのか?どんなかたちで?それともすれ違い?
さあ、面白くなってきましたよ。
 というわけで村上小説に初見参。日本が舞台であるけれども、それがどこであってもよいような世界観。
 村上さんの小説が、世界中で翻訳されている理由が、ちょっとわかった気がします。(一冊読んだだけですが)

他に、こんな本も

『ヤクザ・チルドレン』石井光太2021年11月 大洋図書

 世に「暴力団」と呼ばれている人たちがいる。
 2020年度の警視庁の発表では、構成員・淳構成員合わせて2万5千9百人いるそうだ。
 この人たちにも、子供がいる。その子供たちは、いったいどんな人生をおくるのだろうか。
  親ガチャという言葉があるが、これは究極の負の親ガチャ。暴力、ドラッグ、差別、貧困、離婚、社会のあらゆる問題が全部家の中に詰まっている。それなのに、子供たちは、苦しいと声をあげることさえできない。地域も政治も警察も、力になってくれないとしたら‥‥。
 まことに読むのがつらい本で、「ああ、何にもできないな」と傍観者のまま読み終えました。

『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』スズキナオ 2019年11月 スタンド・ブックス

 スズキナオさん。東京で会社員をしていたが、30代半ばでライター業に転職。同時に大阪に引っ越した。
 実家は東京にあるので、深夜バスを利用して、大阪東京を行ったり来たり。他の土地にもバスで出かけて、いろんな体験をして、それが一冊の本になった。これが、な~かなか面白いんですよぉ。
 その中で、エピソードを一つだけ紹介します。

 スズキさん、あるところで「鏡広告」の話を耳にしたんです。「鏡広告」というのは、銭湯の壁面に貼ってある鏡──男の人なら、それを見ながらヒゲを剃ったりする──にスポンサーがついたものです。鏡のかたわらに社名と簡単なキャッチコピー、電話番号が入っています。
 ここでちょっと、こっちの話なんですが、実はボクの家は昔、ガラス・鏡の製造販売業をやってたんです。そういえば、子供のころ、広告の入った鏡を見たことがあるなあ、と思い出しました。
 で、スズキナオさん、「鏡広告」のことを調べてみようと思い立ち、実際に広告を発注することにしました。
 その途中でわかったことですが、鏡広告の制作や取付は「近畿浴場広告社」という会社がやってくれるとのこと。大阪府八尾市にあるこの会社に、スズキさんは出かけていきました。
 出迎えたのは、江田ツヤ子さん、82歳。全盛期には15人の社員がいたそうだが、7年前に夫秀明さんが亡くなったあとは、ツヤ子さんが一人で運営しているという。なかなか、へえ~な話でしょ。
 スズキさんは、人柄がいい。人の話を素直に聞いて感動する名人だ。

相撲を見よう

大鵬と柏戸の[三段がまえ]                            

    テレビで相撲を見なくなってから久しい。見てない=知らないわけだから何とも言えませんが、テレビや新聞のニュースでチラチラ見ている限り、興味を惹く要素がほとんどありません。
 序二段まで落ちながら大復活を果たし、横綱になった照ノ富士は立派ですが、それに対抗する人がいないというのが、相撲を面白くなくしている要因だと思います。
 何といっても、ライバル同士が火花を散らす、緊張感ある土俵をこそ見たいのですから。
  ライバルといえば、ずうーっと遡りますが、1960年代は柏鵬時代といわれ、柏戸と大鵬の二人の横綱が鎬を削った時代でした。

王鵬 191㎝ 181㎏。ちなみに、大鵬の新入幕時は、187㎝ 101kgだった。       

 さて、その大鵬の孫、王鵬(おうほう)が今日新入幕を果たしました。
21歳。これは面白いんではないかい? ちょっとばかり興味を惹かれて、久しぶりにテレビ桟敷へ。

 今日の相手は、元関脇魁聖。どうなるかと見ておりましたら、あっさり勝ってしまいました。というより、相手の魁聖があっさり負けてしまったという印象です。まだ、ほんとの実力はわかりませんが、ちょっと楽しみ。しばらくフォローしようかな?

城跡一献 初日入り

本日2022年の初日の出、といきたいところですが、とてもその時間には起床できず。というのも、昨日、西さんより頂戴した大吟醸『播州一献』がことのほか美味しく、最近酒量の落ちているボクとしては珍しく、ちと飲みおすぎてしまい、朝の9時頃までぐっすり眠ってしまったわけです。
これは、初日の出ならぬ、初日の入。マンションの外廊下から、西側を望んだ景色です。

『播州一献』の醸造元は、山陽盃酒造㈱といいまして、兵庫県宍粟(しそう)市にあります。フルーティですが、いやみな甘さではなく、切れの良い食事に合うお酒です。
この辺りは、黒田官兵衛が秀吉から初めて一万石を賜った土地であるとか、資料には書いてありました。


マンションの外廊下から西空を見る。なんでもない景色ですが、この場所はボクのお気に入りです。時間と天候によって、さまざまな表情を見せてくれます。

まことひびに新たに、日々ひびひびに新たにして、又たひびに新たなり。
ということで、新年あけましておめでとうございます。

7時までやってます

すっかりご無沙汰してしまいました。 前回更新日から、なんと2か月。

 とくに理由はないのですが、ちょっと間があいてしまうと、何となく億劫になり、あれよあれよという間に、今日になってしまいました。

 さて気を取り直して、今日は、ま、軽い話題から再開いたしましょう。
現在、時刻は午後6時30分。さすがに10月半ばですから(そのわりに、いつまでも暑いですね)もう、あたりは真っ暗です。

ここは、池田城跡公園。開園してるんです。こんなに真っ暗なのに。

【開園時間 午前9時~午後7時(11月~3月は午後5時まで】

ボクは、目の前に住んでいる特権みたいなもので、時々こうやってのぞきに来るのですが、めったに他の人には出会いません。公園一人占めってところですが、ちょっとこれムダじゃないのと思ったりもします。

しかしまあ、気持ちはいいですよ。空気を、思いっきり吸えます。マスク、不要です。

今月いっぱいは7時までやってますので、酔狂な方がいらっしゃいましたら、ぜひ夜の城跡公園に。

おセイさんに、終戦のことを聞いてみる

 ボクは父や母に、戦中戦後のことを聞きませんでした。意識して避けてきたわけではありませんが、まあ興味がなかったのでしょう。こういう話を身近な人から聞いておくことがいかに貴重なことなのか、この年になって初めて気がつきました。もう、遅い。子供や孫たちに伝えてやることもできません。
 かわりに、といってはなんですが、おセイさんこと田辺聖子さんの本から、終戦とその前後の様子を拾ってみます。

『私の大阪八景』 田辺聖子 岩波現代文庫 2000年12月

 おセイさんは、1928年(昭和2年)生まれ。ボクの母貞子は1923年(大正12年)生まれです。
五つ違いですが、まあ似たような境遇にあったものと思っておきましょう。
『私の大阪八景』は、おセイさんの自伝的小説です。おセイさんは、ここではトキコという名の少女として登場します。女学校で、好きだった大場先生がある日、こんなことを言いました。



「英語を使っちゃいけないなんて、バカなことだわ、ね」
と不良少女がイイイ! をするような口つきをして、
「東条首相なんて、インク瓶にヒゲがはえたような顔してるわね。キチガイみたいなことばっかし考えるのね。キライ」
と美しい顔をしかめた。
トキコは大場先生をにらんだ。なぜ先生があの頼もしい口ヒゲの、強そうな軍人のわるくちをいうのかと悲しくなって、
「先生、親米主義ですか?」とツケツケいった。
「いいえ、なぜ?」
と先生はちょっと驚いてトキコを見た。
「そうかて、先生のいいはること、自由主義や」
「自由主義というのはどんなこと?」
「鬼畜・米英の味方するもん、自由主義や」
「ちがうちがう、自由主義というのはね‥‥まァいいわ」

 トキコは純粋培養の軍国少女でした。つまり、トキコ(おセイさん)が物心ついたときには、もう世の中の空気はかなり戦争臭いものでした。
 1931満州事変、1932国防婦人会結成、1933国連脱退、19362.26事件、1938国家総動員法など、トキコ10歳までに起こった出来事です。
 そこへいくと、ボクの母は幼年期に、まだしも平穏な時代の空気を吸っています。この五年の違いはけっこう大きいのかもしれません。

 ここでちょっと話を変えます。
 今これを書いているのは14日の夜ですが、さっきNHKスペシャル「銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ普通の人々」を見ました。
 国防婦人会は、1932年大阪港の近所に住む主婦たちが、出征兵士に湯茶をふるまったことを原点として発足しました。発足当時の会員は40人。それが2年後には約45万人に膨れ上がったといいます。
 婦人たちは割烹着を会の制服として、出征兵士の見送り、留守家族の支援、慰問袋の発送、はては国債の購入運動まで、さまざま活動をおこないました。最盛期には、会員数一千万人近くになったそうです。
 なぜ女性たちは、これほどに活動にのめり込んだのか?

国防婦人会の女性たち。割烹着にたすき掛けが、会服だった。

 女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会は「社会参加」の機会だった、と番組ではとらえています。
 家にあっては、嫁は夫や姑に絶対服従を強いられた時代、外に出て、同世代の仲間たちと語り合い、「社会の役に立っている」と実感することは、大きな喜びだったに違いありません。

『楽天少女通ります』田辺聖子 日本経済新聞社 1998年4月

 人は、ちょっとしたきっかけで、どっと同じ方向に走り出すことがある。そして、その背景にあるもの‥‥なかなかに、考えさせられる番組でした。 

さておセイさんに話を戻します。今度は『私の履歴書~楽天少女通ります』から。 
 ときは1945年(昭和20年)、おセイさん17歳になっています。
 この年、3月13日、第一回の大阪空襲が行われました。
 その直後、町内会長であるおセイさんの父の元に町内の男たちが集まりひそひそと話し合っています。

 <防火砂、火叩き、バケツ、あんなオモチャが何になりまんねん。焼夷弾が落ちる合間にどかーんと、今度は爆弾やよってな。>
 <そこへ機銃掃射でやられるらしおます>
 と、口コミの情報は早かった。
 <こら、もう、あきまへんデ。日本、バンザイでんな>
 というのは降伏という意味。
 <あない敵機来る、ということはこっちの飛行機が無うなった、ということや。高射砲は中らへんし、日本の軍隊も頼りないことわいな、威張るわりには力おまへんがな>
 とお巡りさんが聞いたら<ちょっと来い>といわれそうなことを放言する人。ニセの診断書を徴用先の工場に提出してさっさと田舎へ逃げる要領のいい人もいたが、みながみな、小器用にたちまわれたわけではなく、楽観的な父が、
 <この裏まで焼けたんやから、もうここらは空襲来まへんやろ>
というのへ、そうでんな、とはかない空だのみしか、すがるものはなかった。

 ここに集まる男たちは、柔軟というか、ええかげんというか、現実的というか、要は町のおっちゃんです。
 戦時下にあっても、住む場所、境遇、ちょっとした時間のずれなどで、いろんな考えの人が存在するということは、心にとめておいてもいいかもしれません。

 さて次は玉音放送の場面です。長くなりましたので、これで終わりにします。もう少しお付き合いください。

 終戦の詔勅の放送はその尼崎の家で、一家五人が聞いた。祖母は疎開していた。
 はじめて聞く<現人神>の肉声は異次元からの合成音のように浮世離れしており、その上、漢語が多くて理解の外だった。父と母は、
 <降伏、いうてはるのやないか>と顔を見合わせあい、私と弟は、
 <そんなことはない、絶対、一億みな全滅せよ、いうてはるのや、最後の一戦、いうてはる>と力んだが、しかし詔勅の内容はそうではない方向へ、どんどん逸れていくようである。そのうち、
 「堪へ難キヲ堪へ、忍ビ難キヲ忍ビ」
 でわたしもさすがに事情を理解した。日本は、まえに父たちが危惧していたごとく、<バンザイ><お手上げ>をしたのである。そのことよりも私は、実在であって実在でないような<現人神>の肉声を聞いてしまったことが、取り返しがつかないような痛恨であった。陛下は現身を持つかたでいられたのだ。

  玉音放送の場面は、テレビでもしばしば出てくる。皇居前広場で正座をして涙を流す人たちの映像もよくあらわれる。
 ボクの父や母はどのように聞いたのだろう。
 そのことさえ、聞いたことがない。  

ひろしま HIROSHIMA

 妻恵子は、いつもこの日の朝、黙祷をささげていました。
恵子のお母さんは広島出身で、女学校を卒業したばかり16歳で富山の父の元に嫁いだのでした。

原爆ドーム螺旋階段で遊びし少女母は八月六日三日前に嫁す

 原爆投下の三日前、一人汽車に乗って富山に嫁いだのだといいます。
「運命」を感じさせるタイミングでした。あと三日遅れていたら、恵子とその姉妹たちは生まれていなかっただろうし、恵子はボクと出会うこともなかった。ボクたちの子供たち孫たちもこの世にいなかったことになります。

祖父よあなたは見たのでせうか 蒼空に光る落下傘を その日の朝に

 しかし、お母さんの父親と弟が原爆の犠牲になりました。恵子の黙祷は、こうしたいろいろな思いがこもったものでした。

『ひろしま』石内都 集英社 2008年4月

さて、この石内さんの写真集も、もちろん恵子のライブラリー。

石内都さんは、母の遺品シリーズ「Mother’s」などで有名ですが、モノを撮る写真家です。石内さんがシャッターを押すと、資料としてのモノが、人が生きた証としてのモノに蘇ります。

広島平和記念資料館には、約1万9千点の被爆死した人の遺品と被爆した品物が保管されています。石内さんは、その中から、肌身に直接触れた品物を中心に選んで撮影しました。

原爆ドーム天蓋のなき聖堂に似てひしひしとわれを捉へり

現身のあまたの腕空を搔き苦悶に震ふ音叉となりぬ

エノラ・ゲイ蘇り来てあるといふスミソニア博物館は海を隔てつ

 今年で、76年。記憶は薄れていきます。
出来事を直接知る人も、もうほんとうに少ない。
大切な原稿をすっ飛ばして読んだ人もいるそうです。
ほんのわずかな手がかりであっても、記憶をエピソードとして記録しておくのもよいかと思います。
黙祷

(掲載歌はすべて恵子作です)

松ヶ崎で、慶喜と栄一が‥‥そうだったのか

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、オリンピックのためしばらくお休みですが、なかなかがんばっていますね。
 ドラマ前半で話題になったのが、一橋卿(のちの将軍)慶喜を演じる草彅剛。そして、堤真一演じるところの平岡円四郎という人物です。

高貴な血を引く聡明な主、無骨者で十五歳も年上の家来。変わり者の二人の気が妙に合った。

 幕末で、わかりにくい正体の知れない人物といえば、まず西郷、そしてこの慶喜ではないでしょうか。申し分のない血筋の良さ、知力、胆力、しかし人からは容易に心の内を覗かせない複雑な人物。これに草薙剛のキャラが、なんとピタリとはまったのです。今まで見た慶喜の中でもっとも意外、なのにもっともそれらしい。キャスティングの妙ですね。

 平岡円四郎の方は、キャスティング(堤真一)もいいですが、円四郎そのものが面白い。
 実はボク、この人のことを知りませんでした。ほんとにこんな面白い人がいたのかな? そこでハッと思い出したのです。司馬さんならどっかに書いてるかもしれない。
 なあに、簡単でした。『最後の将軍』がありました。

御三家の一つ水戸家に生まれ、のち十五代将軍として、みずから幕府を葬り去るらねばならなかった慶喜の活動を描く。
『最後の将軍』 文春文庫 1974年6月 司馬遼太郎

 さっそくページをパラパラっと捲ってみると、出てきました、平岡円四郎の名前。前に読んだとき(奥付によると1990年)気にもとめなかったんですね。慶喜が水戸家から一橋家へ養子に入った時、慶喜の父斉昭が「誰か硬骨で学問のある近習はいないか」といい、円四郎が召し出されたのでした。

こんな面白い人がいたとは。(堤真一ぴったり)慶喜の信任あつかったが、1864年水戸藩士により暗殺される。

 性、質朴で学問を好み、英才もある。ただ動作がいかにも粗野で、その上他人との交際を好まず、目上の者の屋敷にうかがってもお辞儀ひとつできぬ男だった。

円四郎は、「自分の柄ではない」と、この話を断りました。しかしこれを聞いた斉昭は、その欲のなさに感服し強いて請けさせたのです。

 平岡は、食事の給仕をせねばならない。無骨な手つきでめしびつをひきよせ、杓子をとり、椀をとったりしたが、どうもうまくゆかず、飯がこぼれたりした。
「円四郎、給仕のしかたを知らぬのか」
 慶喜は、気の毒そうな表情で年上の家来にいった。言うだけでなく平岡の手からひつをひきよせ、杓子と椀をとりあげ、給仕のしかたはこうするものだ、とていねいに教授した。どちらが近習であるのか、他人がみれば見当を違えるであろう。
(なんという殿か)
 平岡は冷汗をかきつつも、仰天するおもいだった。

顔が、というのではない。似ているというのではなく、「つかみどころがない」という雰囲気を持っている。草彅剛の慶喜。

辞儀ひとつできなかった男は、やがて慶喜の知恵袋と言われるまでに成長してゆきます。

さて、話を飛ばします。そして、端折ります。

渋沢栄一です。渋沢の家は半商で、藍玉を商い、近郷で屈指の富家でした。栄一二十四歳。攘夷論にかぶれ、近郷の若者を集め、横浜の開港場を襲い、異人を殺戮しようという計画を持っています。その栄一が、平岡円四郎のもとを訪ねました。(挙兵のためには、一橋家の暗々裡の後援をとっておきたい)と考えてのことでした。円四郎はこれを聞いて驚きますが、この血気盛んな若者を「手に入れたい」と思いました。

円四郎は栄一に、正式に一橋家に仕官するよう勧め、慶喜にも会わせようとしました。ただし、農民という身分上、正式にお目見得は許されません。
 そこで、円四郎は栄一に知恵を授けます。毎朝慶喜が調馬に出るときに、途中の道で待ち伏せ、走り出て名乗りをあげよ、というのです。
 ボクはドラマでこのシーンを見たとき、こりゃ絶対テレビ用のエピソードだと思いました。だって、これはまるで日吉丸みたいじゃないですか。

ところが、『最後の将軍』にちゃんと書いてあるんですね。

 渋沢は、いとこの喜作とともに未明から藪の中にひそみ、慶喜一行の来るのを待っていたが、やがて東天が白むとともに地をゆるがすような馬蹄のとどろきが聞こえ、渋沢らは走り出た。が、一行は駆け過ぎた。
(御馬の疾いことよ)
二度しくじり、三度目はこの騎馬団のあとを懸命に駆けた。護衛隊がさわぎ、ひきかえしてきて渋沢らを取り籠めた。渋沢は刀を鞘ごと抜いて地に捨て、両膝をつき、慶喜の方角を拝した。慶喜は手綱を引き、引きつつ鞭をあげて渋沢らをさしまねいた。その姿は、渋沢の目には眩むほどにかがやいてみえ、文字どおり歴史のなかの千両役者であるように思えた。渋沢らは夢中で近づき、夢中でなにかを言上した。自分では平素考えている時勢論を懸命に喋ったつもりであったが、なにをしゃべったのか、あとになっても思い出せない。終わって慶喜はすこしくうなずき、
「円四郎までよく申しておく」
 と言いすて、馬首をめぐらせて去った。

 司馬さんが書いているから史実だとは限らないわけですが、どうやら本当にあったことのようです。言い忘れてましたが、このとき慶喜は将軍後見職で京都在住。そしてこの、渋沢との出会いの場所は松ヶ崎です。

 松ヶ崎。
実はボクが学生時代、三年間下宿していた場所が松ヶ崎なんです。
へえ~、そうかあ、あそこを馬でね。渋沢が追っかけて‥‥
 これだから、歴史は面白いんだよね、
とひとり悦に入っているボクでした。

昼寝

 今日、昼寝をしました。この3年間で、つまり一人暮らしをはじめてから、初めてのことです。
 机の前で、コトンコトンと居眠りをしているのは、しょっちゅうなのですが、ちゃんとベッドに横になってということはなかったのです。

 なぜ昼寝をしなかったかというと、うっかり寝てしまうと、このまま起き上がってこなくなるような‥‥、そんな気がしたものですから。
 今日は、朝から運動に出かけまして、昼過ぎに汗びっしょりになって帰ってきました。それでもしばらくは机に向かって作業をしていたのですが、さすがにこれはたまりません。
 午後4時半くらい、睡魔に誘われるままに横になり、目が覚めると7時近くになっていました。
 いやあ~、甘露、甘露。爽快です。
 ビールの旨いこと! こんな贅沢があっていいものでしょうか。
 あらためて、昼寝の気持ちよさに目覚めた、という思いです。