ビリーホリディ そして‥‥

 いま、ビリーホリディを聴きながら、これを書いています。
 そしてあの、 strange fruit (奇妙な果実)のところにくると、やっぱり身構えてしまうんです。

「奇妙な果実」はルイス・アレンという若い高校教師が、作詞・作曲した。ビリーは1939年にこの曲に出合い、自身のレパートリーに加えるようになったが、コロムビアレコードはこの曲の録音を拒否したため、小さな専門レーベルであるコモドアレコードで録音された。

Southern trees bear strange fruit
Blood on the leaves and blood at the root
Black bodies swinging in the southern breeze
Strange fruit hanging from the poplar trees

 アフリカ系アメリカ人に対する人種差別反対の、象徴的な歌としてあまりにも有名ですが、ビリーはこれをたんたんと、語るように歌います。身構えていたボクも、いつのまにか引き込まれています。

和田誠さんが描くビリー・ホリディ。
『ポートレイト・イン・ジャズ』から。

 ジャズはいいですね。 
 ジャズというのは、奇跡だとボクは思うんです。
 アメリカが産んだ。もっとも素晴らしいものではないでしょうか。
 19世紀末に、ルイジアナ州ニューオリンズで生まれたということですが、西アフリカの音楽にルーツを持ちながら、その後さまざまな音楽と融合しながら進化し分化していきます。
泥臭いのかと思いきや、極めて都会的でおしゃれなのもある。複雑なコード、高度な演奏技術、そして即興性。

ビリー・ホリディは、1959年7月17日に亡くなっているが、ジョン・コルトレーンもまた7月17日が命日だ。(1967年)
ボクの好きなジャズプレーヤー。

 学生時代のボクは、けっこうはまったんですよ、ジャズ喫茶に。
もうもうと向こうが見えないほどの煙草の煙の中で、何かを考えるようなふりをしながら、ジントニックなどを飲んでいましたっけ。
 河原町の荒神口にあった、ほれほれ、なんだったけな。それから学校の裏側の相国寺のちかくにあった、それそれ。えーと、いけね。ぜんぜん、名前を思い出せません。ま、いいか。
 そうそう、もう少し後になりますが、ケイコともよく行きましたよ。東山三条の「カルコ」、京阪三条のあたりの「蝶類図鑑」。久しく、京都にも行っていません。

『ポートレイト・イン・ジャズ』
和田誠 村上春樹 
平成16年新潮文庫
和田誠が、まずお気に入りのジャズプレーヤーの似顔絵を描き、それに村上春樹がエッセーをつけるというスタイルの、楽しい読み物。53人のジャズマンが登場。

中の表紙をのぞいてみよう

天声人語(21年11月20日)は、次のような内容でした。

世の読書家には二つの流派がある。一つは、本を包むジャケットを外して中にある表紙のデザインを確かめる派。もう一つは表紙には見向きもしない派である。私は後者に属する。大阪市で出版社を営む末沢寧史さんは筋金入りの「確かめる」派。書店で本を選ぶ際、必ずジャケットを外し、表紙のつくりを点検する。「ジャケットはお化粧、中の表紙は素顔」。その違いを楽しみたいからです。(以下略)

ボクも、ジャケットを外してまで中の表紙を見ることなど、あんまりありません。興味を惹かれたので、手近にある本のジャケットを片っ端からめくってみました。

結論から言いますと、ほとんどの本は、中表紙が無地一色、またはジャケットのデザインを若干アレンジしたものでした。つまり、わざわざジャケットをめくって中の表紙をのぞいたとしても、それほどのサプライズ感はない、ということになります。

でもね、時たまにあるんですよ。おー、これはガンバっとるなー、というデザインが。確率でいうと、千冊に四、五冊。いえ、ぜんぜんエー加減なカンですがね。ま、それくらい少ないということです。

ではちょっと我が家の本棚から、その稀有な例をお見せしましょう。

『精霊の王』中沢新一 講談社 2003年

かって、日本のいたるところの道に無造作に転がっていた、シャグジ=宿神と呼ばれる石の神について語った本です。ジャケットをめくると、この石の神がお出ましになる仕掛けになっている。背表紙のワインレッドも効いていて、美しいデザインです。装丁家は、祖父江慎さん。

『ページと力』鈴木一誌 青土社 2002年

鈴木一誌さんは、グラフィックデザイナー。ブックデザインを得意とするが、単に装丁だけでなく、本文、図版レイアウトを含めた書物全体の設計を手掛けている人です。ジャケットを開いて現れるのは、ブックデザインの工程を表したチャート図。装丁は、もちろんご本人です。

『星への筏』武田雅哉 角川春樹事務所 1997年

星への筏‥とは、古代中国人の詩的想像力の言語世界のなかで、「宇宙船」を意味することばであった。武田氏は中野美代子さんのお弟子さん。中野流の面白ろ不思議なグラフィック世界が展開する。中の表紙は「河源之図」。中央に見える山は、崑崙。装丁は鈴木一誌+後藤葉子+宗利淳一

『ぼくは豆玩』宮本順三 いんてる社 1991年

宮本さんは、高等商業を卒業後、グリコに入社。それ以来、ずーっと半世紀にわたってグリコの豆玩(おまけ)を作り続けてきた人です。ジャケットの絵は、宮本さんがメモ帳に描いた思いつき。ジャケットを開くと、ご本人の似顔絵。あっと驚く趣向ではないけど、イキなもんでしょ。

『肉麻図譜』中野美代子 作品社 2001年

「肉麻」は、「ろうまあ」と読みます。「麻」には繊維としての「あさ」のほかに、「しびれる」の意味があり、そこから「肉麻」は「いやらしくてむずむずする」の意味になるそうです。これは中国の春画についての本。中野美代子さんは、ボクの敬愛する著作者の一人ですが、こういうのも結構お好きなんです。さて、ジャケットをめくると、さすがに表には出しにくいような絵が現れる仕組み。装丁者は、阿部聡さん。

いかがですか? いままで見過ごしていた、ジャケットの内側のギャラリー、あなたもちょっとのぞいてみては。

千年の時、7千kmの距離を超えて

 一年前に東京で買ったまっさらなノートを広げてみる。表紙は奈良美智の怒った小さな女の子。ノートに私はこんなことを書く。一応、人形遊びをする子供っぽく。
「これから私は長期休暇を取るのよ。それで、日本へ行って、セイショウナゴンを調べるの。どこかから奇跡的にお金をもらえて、それで一年間暮らすの。それでもって、あたしはいろんなところを旅して、ドキドキワクワクの一年をすごして、それについて本を書く。あたしは残りの人生を幸せに暮らして、つぎはどんなすごいことをしようかって考えるわけ」
2009年10月5日。38歳。ここから始まる。私にはわかる。

『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』ミア・カンキマキ 末延弘子訳 草思社 

 この本は図書館で借りてきました。作者はフィンランドの女性。名前は、ミア・カンキマキ。
 ふとしたことから、英訳の『枕草子』を読む。千年前に書かれたことが驚くほど身近で、「まるで私に話しかけているみたい」に感じた彼女は、たちまち清少納言(セイ、と呼んでいる)に恋をしたのでした。
そしてボクはといえば、この本を数十頁読んだところで、ミアさんに恋をしてしまいました。そう、この本、すっごく面白い。
 話は端折りますが、とにかくミアは、首尾よく長期休暇を取ることができ、これまた首尾よくノンフィクション助成金を獲得することができたのでした。2010年8月、ミアは日本へ向かうフィンランド航空の機内の人となります。日本人客室乗務員の美しい微笑みに触発されて考えたこと。

 でもね、セイ。あなたは客室乗務員にはなれなかったと思う。あなたがとても変わっていて、ただ変わっているだけでなく、なんだか鼻につく受け入れがたい女性だったと書かれているのを繰り返し目にするから。
 人の行動の欠点はよく指摘するのに、あなた自身もふさわしいふるまいをしていなかったのよ。あなたは自分を出し過ぎ、熱くなりすぎ、自立しすぎ、積極的すぎ、自信を持ちすぎ、頭の回転が速すぎた。
 あなたは漢文の知識や教養をひけらかした。立ち向かってくる男に挑み、なおかつからかい、知性では自分が上だとういうところを見せつけて楽しんだ。

 どうです? ミアの理解は、適格でしょう。フィンランド人なのにすごい、などと思ってしまうのは、例によって「日本人はユニークだ」病にボクも罹っているのでしょう。しかし、まったく面白い。実はここまで、半分読んだところなんですが、とりあえずお知らせしたくて。
 ミアは3か月の予定で京都に滞在。銀閣寺近くのガイジンハウスに宿をとりました。思いのほかに厳しい京都の夏、ゴキブリ、鼠、太ったムカデ。
 しかし本当にいまミアが困っているのは、清少納言に関する資料が想像以上に少ないこと。ライバルのムラサキについての資料はたくさんあるのに‥‥。

 女たちはあらゆる場所で時代を通して物を書いてきたと思う。でも、様々な理由から彼女たちの文章は残っていないか、少なくとも文学史に載るまでに至っていない。
 セイ、この世界の一人ひとりの女性が千年前に考えていたことを知りたいとき、平安女性をおいて他に誰がいるだろう。あなたの心の友のようなジェーン・オースティンは1700年から1800年の変わり目になって書いた人だし、ヴァージニア・ウルフにいたっては、自分には歴史的な手本になる人がいないと1920年になって不満を言っていたくらいだ。

 ジェーン・オースティンもヴァージニア・ウルフも、ボクは読んだことがありませんが、二人とも英国の女性作家として、そして文学史上の古典として、とても重要な存在(だそう)です。
それを思うと、いまから千年以上も昔に日本で書かれた、『源氏物語』や『枕草子』は、素晴らしいものなんだなと、改めて思うわけです。そして、『枕草子』は、とてもセンスが新しい。現代に通じるものがあると思います。ミアさん、よくぞ発見してくれたなあ。
 

池田 いけず石事情

「いけず石」と、俗に呼ばれている石があります。
たとえば、こんな石です。

ご丁寧に2方向からの接触を防いでいる。守っているのは、古い家屋?

 家の角に置かれ、付近を通行するクルマが誤って家の壁や設備などを傷つけてしまわないように防ぐもの、とされています。
 逆にドライバーの側にたてば、曲がり角でガリっと嫌な音がした。後で見ると、ホィールが傷ついている。チクショー、あの意地悪な(いけずな)石のせいだ、となるわけです。

 「いけず」というネーミングが暗示するように、いけず石は京都に多いといわれています。ところが、ボクが住んでいる池田にもけっこう多いのです。試しに「いけず石」をネット検索すると、なかなかの広がりを持つことがわかりました。ファンもいるようです。

情報を整理してみましょう。

  1. いけず石は京都に多い(一応そうしておきましょう)
  2. クルマが家屋を傷つけるのを防ぐために置く
  3. ただし、それが北東角に置かれている場合は、鬼門封じの役割を持つとも考えられる
  4. 京都以外の場所にもある(が、どこにもあるというわけではなさそう)
  5. 正式名称? または、いけず石以外の名称あるのかないのか、不明。
  6. 建築的な定義など=ない(建築家の友人に聞いてみましたが)
  7. いつ頃からあるのか(歴史)不明。クルマ=自動車とすれば昭和(とくに戦後)。荷車であれば、江戸または室町。牛車までさかのぼれば、平安時代。

いま言えるのは、こんなところでしょうか。

なぜ京都に多いのかを考えると、

  1. 道が狭い
  2. 交通量がそこそこ多い
  3. 守りたいものがある(古い家屋など)

この3つが、いけず石を生んだ要因ではないかと。私見ですが。
逆に言うと、これに当てはまれば、いけず石を生み出す確率がぐんと上がるというわけです。

 池田にも、これがある程度当てはまります。とくに、呉春のある綾羽町のあたりはそんな感じです。
 逆に、池田市でもっとも古い分譲地といわれる室町のあたりには、いけず石はほとんど見当たりません。このあたりは区画が大きく、道幅も広いためです。いけず石が面白いのは、これがあくまで自然発生的に現れているということです。
 さて、あなたのお住いのあたりはどうですか?
 いけずな石はありませんか?

戦争について(少し)考えてみる

 もとより戦争には反対です。しかし、長い長い人類の歴史において、人は戦争を続けてきたではありませんか。小説やドラマや歴史の中では、その物語や英雄伝説に心躍らせるではありませんか。
 人の、あるいは生物としての本能がそうさせるのでしょうか。それとも、「必要悪」とでもいうべきものでしょうか。

 かすかな記憶を頼りに、こんな本を引っ張り出してきました。
 『良心の領界』。これは2002年に行われた、スーザン・ソンタグを囲むシンポジウムの記録です。パネリストとして、浅田彰、磯崎新、姜尚中、木幡和枝、田中康夫が出席しています。

『良心の領界』スーザン・ソンタグ 木幡和枝訳 NTT出版 2004年3月


 この中で、かつてスーザン・ソンタグと大江健三郎が交わした往復書簡のことが話題になりました。
 浅田彰の発言:

 いくらミロッシェビッチを抑止するためといってもNATOの空爆は容認できないというのが彼(大江健三郎)の立場でしょう。それに対してソンタグさんは、そう言いたい気持ちは非常によくわかるけれども、「ノー・モア・ウォー」と「ノー・モア・ジェノサイド」「ノー・モア・ヒロシマ」と「ノー・モア・アウシュヴィッツ」を同時に考えなければいけないとき、ジェノサイドを防ぐために最小限のウォーが必要になるという厳しい選択もあるのだとおっしゃっている。
 たとえば、ドイツの緑の党のジョシュカ・フィッシャー外相が軍事力の投入をやむなしと判断したことを、ソンタグさんは肯定しておられます。

 この往復書簡というのは、99年6月に朝日新聞に掲載されたものです。
 このとき大江は、「私はこの国に柔らかなファシズムの網がかけられる時、若者たちが国境の外へインターネットの窓をあける、そのような共同体を夢想します」と、大江らしい言い方をしたのに対し、ソンタグは「柔らかなファシズム」とはあまりにも「あいまい」でムード的なんとちゃいまっか、とたしなめたのでした。
 ちなみにソンタグは93年から95年まで、戦火のサラエボを計5回も訪問し、長期滞在しています。現場での体験から、ソンタグとしては、戦争のリアリティを語らずにはいられなかったということでしょう。
 紛争地帯への介入について、少し違った角度からの意見があります。
 姜尚中の発言:

 ソンタグさんは、一般論としてある種の人道的介入が是か非かではなく、きわめて具体的な状況の中で考えていくべきであると言い、それに対して大江さんは、原理的にすべての人道的介入は成り立ち得ないという立場をとっておられる。私自身は、大江さんと異なる意味で、人道的介入に対して否定的です。具体的には南アフリカ共和国のことを考えるとわかると思いますが‥‥(中略)南アフリカの問題は、短期的にみるとアパルトヘイトによって膨大な犠牲者が出たのですが、しかしそこに介入しなかったことによって、長期的にみるとさまざまな犠牲をより少なくすることができたのではないでしょうか。
 朝鮮戦争もまた、もしそこに大国が介入していなければ、同じ民族同士があれだけの殺し合いにならなかったのではないかと思います。

 さて、いまのウクライナです。ロシアによる一方的な攻撃により、あれだけの犠牲が出ているのに、アメリカも周辺各国も直接の介入を手控えているようです。たぶん、おそらく、それが正しいのでしょう。
 ここで、下手な手出しをすると、火に油を注ぐどころか、とんでもない大戦争へつながってしまう可能性もあります。ですが私たちに、いや私にできることは何でしょう。ほとんど何もない、ように思われます。そんなとき、彼女の、こんな言葉がスッと胸に入ってきました。
 スーザン・ソンタグの発言(この本の序文から):

 少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券ももたず、冷蔵庫と電話のある住宅をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったとしたら、と想像してみてください。
 自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
 恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生を通じてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
 傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分の中に取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
 良心の領界を守ってください‥‥。

 もう少しお付き合いください。二冊目の本です。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。
 タイトルを見ると、だいぶお堅そうな本ですが、これなかなか面白いんです。著者の加藤陽子さんは東大の先生で、専攻は日本近現代史。この本は、加藤先生が神奈川県の男子高校で五日間にわたって行った、講義と質疑応答の成果をまとめたものです。
 取り上げている範囲は、日清日露戦争から、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、そして太平洋戦争です。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 新潮社 平成28年7月

 この本を読んでいる途中で、ふと思いました。
 あれ、日本という国は日清戦争以来、案外積極的に戦争を仕掛けていってるなあ、と。決して、売られた喧嘩を買っているのではない、むしろ喧嘩を売りにいっているのです。
 たとえば日清戦争は、朝鮮半島をめぐっての日本と清国との争いなんですが、日清同時撤兵を主張した清国に対し、これを拒否し宣戦布告したのは日本でした。また、満州事変は南満州鉄道の一部を日本軍が自ら爆破し、それを中国側のしわざだといちゃもんをつけて始まったのでした。
 「日本という国は」と、あいまいな言い方をしましたが、実際には誰が戦争を起こしているのでしょうか? 軍部? その中のエリート参謀たち? 政治家? 天皇? それとも国民? 
 国民はいつも巻き込まれる立場だと思われがちですが、いかなる独裁者も国民の同意なしには、戦争は行えません。
 満州事変のときに、東大(当時は東京帝国大学)の学生たちに行った意識調査の記録があります。『丸山眞男の時代』という本に載っているエピソードで、孫引きになりますが紹介します。
 1931年7月、満州事変の2か月前に、学生たちに「満蒙(満州と東部内蒙古)に武力行使は正当なりや」と質問しています。
 これに対し。なんと88%の東大生が「然り(YES)」と答えているのです。この結果、どうですか? ちょっと意外だとは思いませんか? 
 今日(2022年4月9日)の朝日新聞「天声人語」には、こんな記事が載っていました。
 ロシア国内でのアンケートで「ロシア軍のウクライナでの行動を支持しますか」の結果は、8割超が「支持」だったというのです。もっともこの記事には続きがあり、ロシアの報道サイトでは戦果が誇大に報道されているとか、国営テレビでは負傷したウクライナ市民をロシア兵が救助しているとかの裏事情が紹介されています。もちろんロシア市民には、うかつに本音を語りにくいといこともあるでしょう。
 しかし、ともかく形としては、国民は同意している。ここに、何か考えるべきポイントがあるような気がするのです。
 太平洋戦争、真珠湾攻撃のときはどうだったのでしょう。
 竹内好という中国文学の先生は、こう書いています。
「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った。十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであった。」
 では、庶民はどうであったか。これは記録に残りにくいんです。また孫引きになりますが、『草の根のファシズム』という本から。山形県大泉村の小作農Aさんの開戦の日の日記。
 「いよいよ始まる。キリリと身のしまるを覚える」そして真珠湾攻撃のときは、半日農作業を休んで「新聞を見てしまった」と書きました。
 横浜で鉄道の駅員をしていたKさんは
「駅長からこの報告を受けた瞬間、既に我等の気持ちはもはや昨日までの安閑たる気持ちから抜け出した。落ち着くところに落ち着いたような気持ち阿」と日記に書きました。
 この二人が日本人の代表というわけではないですが、雰囲気としてはこんなものかと。
 さて、もしもボクが太平洋戦争が始まったこの時代に、庶民として生きていたならば、明確に戦争反対の立場を取れるでしょうか。考えると、実に覚束ないと思います。
 以上。戦争について(少し)考えてみました。
 結論は? ありません。
 ただ言えることは、恐れずに発言できる「今」が、見かけよりもずっとずっと貴重だということ。いまのうちに、考えたり、歴史に学んだり、できれば誰かと話をしてみるのもいいですね。傾注すること、注意を向けることです。
そうそう、ボクが戦争のことを考えるときに、いつも頭に置いている考え方があります。それは、司馬さんが言う市井のリアリズムです。

『「昭和」という国家』司馬遼太郎 NHK出版 1998年3月

 私は聞いてみたいのです。
アジア人のすべてから憎まれ、われわれの子孫までが小さくならなければいけないことをやっていながら、どれだけの儲けがありましたかと。どれだけ儲けるつもりでそれをなさいましたかと。

 昭和の初期、日本の軍隊はリアリズムを失っていたと、司馬さんは言います。ソロバン勘定が合わないというのです。戦争や政治を損得に置き換えるのはムチャなようですが、ボクにはよくわかります。町の、八百屋のおっちゃんやお好み焼き屋のおばちゃんなら決してやらないような商売、それが戦争の正体なのかもしれません。

ぶあいそに「いいね」

 久しぶりに、ぶあいそうな豆腐屋に行き、豆腐を買ってきました。ここに行くときは、小銭をきっちりと持って行きます。
 今日もボクが買うのは、木綿豆腐。選んだ豆腐と、百円玉1枚、十円玉6枚を狭いカウンターの上に置くと、半陰になった店の奥から手がゆっくりと伸びてきて、摘まみ上げ、手のひらの上で大豆を選別するように数えては、レジの箱に放り込みました。
 相変わらず、「・・・・・・」です。喉の奥で、クっと何かが鳴ったような気がしましたが、たぶん気のせいでしょう。
 引き戸を引いて外に出ると、何だかこう、自然ににんまりとしてしまうのですなあ。豆腐を買いに行ったのか、店主のぶあいそを見に行ったのか、本当のところはどっちなんでしょう?

 さて、今夕はこれを喰らひます。それまでに、水出しをしておきます。豆腐を平皿に置き、上下をキッチンペーパーで挟んで、重しをします。
 重しはっと、おお、これにしましょう。サントリーの「だるま」です。先日、水屋の奥の奥のほうから出てきました。少なくても20年、おそらくは30年くらい前のものでしょう。
 ちょっと味見をしてみましたが(だるまのほうです)、なんか変。甘すぎるし、粘りがあるような。飲むのはやめときましょうか。
 しかし、重しには最適です。いかにも「お・も・し」て感じがするじゃないですか。
 だるまといえば、だるまほどぶあいそなものも、他に見当たりませんね。面壁九年、一言も口を利かなかったという人ですから。うん、こいつはいいや。重し、頼んだぜ。

  一時間ほどで、いい具合に水切りできました。これ、400gあります。かなりのボリュームです。今日は半分食べます。幅6~7mmくらいにスライスします。オリーブオイルを垂らし、塩をパラパラ。塩は、今日は伊豆大島産の天日海塩を使います。

こんな感じ。盛り付けも、実にぶあいそ。それでは「いただきます」

月見草忌?の翌日は菜の花忌

 2月12日は、菜の花忌。ノムさんの命日の次の日が司馬遼太郎さんということなんですが、実はこのお二人、若いころ隣同士に住んでいたらしいんです。
 ところは、大阪市西区の西長堀アパート。まだマンションという言葉がなかった時代で、マンモスアパートと呼ばれ、日本住宅公団の高層化第1号モデルでした。著名人の居住も多かった。司馬遼太郎さん、森光子さん、石濱恒夫さん(作家・作詞家)、そしてノムさん。

あくまで架空の対談です。文責 三十郎

司馬 あなたも西長堀のアパートに住んではったそうですな。私は10階におりましたが、あなたは?
ノム 私も10階で。
司馬 やっぱりそうか。いや、隣に大きな男が住んでいるということは知ってたんやが、何しろスポーツ音痴で‥
ノム はっは いや私は当時22か23くらいの若造で。試合がありますから、夕方に出て行って夜中に帰ってくるような生活で、お顔を合わせるようなこともなかったと思います。
司馬 それそれ どうも普通のサラリーマンとは違う。怪しい、と家内が言うんですわ。
ノム あっそれはどうも 失礼しました。
司馬 いやいやいやいや 失礼はこっちです。あっそうや 池波正太郎さんが訪ねてきたことがあるんですわ。その時廊下であなたとすれ違ったらしい。「司馬さん、お隣は野球選手とちがいますか」と言うたはりましたなあノム 池波先生言うたら、あの鬼平の‥ 
司馬 そうです 池波さんも私と同じ大正12年(1923年)生まれや
ノム 私は昭和10年(1935年)生まれですから、ちょうど一回り違いです。ところで先生、野球のほうは‥‥
司馬 それが、さっきも言うたとおりスポーツはからきしで‥。そや『坂の上の雲』という小説があります。登場人物の一人に正岡子規という俳人がいるんやが、子規は野球が日本に伝わったときからの熱心なファンで、打者、走者、四球といった野球用語は彼が作ったんですわ。「野球」そのものも子規作という説もあるが、これはウソ。そやそや、子規が野球するときは、キャッチャーやったそうでっせ。
ノム へえー、それは面白い。こんど『坂の上の雲』も読ませてもらいます。今までは、小説を読む余裕はなかったですが。
司馬 私も、少し野球の勉強してみますかな。

現在の西長堀アパート。耐震補強を含む大規模リノベーションを行い、新規入居募集を再開。

やあノムさん ボヤいてまっか

 2月11日は、ノムさんこと野村克也氏の命日です。おとどしですから、三回忌かな。
 このところ、高津監督、矢野監督、新庄ビッグボスなど教え子たちの活躍もあって、ずいぶんと持ち上げられていますね。ボクとしても、実にうれしい限りです。

 これは、ボクが持っているLPレコード。ジャケットのイラストは、つい先日亡くなった水島新司氏です。このときノムさんは38歳。プロ入り20シーズン目で、南海ホークスの監督、四番打者、捕手を務めていました。
 ボクはこのころからファンでしたが、実のところ現役時代のノムさんは、あんまりカッコいいとは思いませんでした。ネクストバッターズサークルでの立居振る舞いが、いかにももっさりしていました。捕手として致命的だったのは、肩が弱かったことです。
「おいノム、ボールにハエが止まっとるやないか」
などと、よくやじられてましたね。
 さて話を急ぎます。ノムさんは、選手として、監督として、野球評論家として、それぞれに素晴らしい成績を残していますが、ボクとしては、ノムさんの野球界への貢献の第一は「言葉」だと思っています。野球の技術論、戦術論、リーダー論、組織論、これらを著作、ミーティング、談話、解説、ボヤキなどの回路を通してアウトプットしていった。野球の奥深さ、面白さを多くの人に伝えるという仕事は、長嶋にも王にもイチローにもできなかったことです。

『野村ノート』野村克也 小学館 2005年10月

 この『野村ノート』は、数ある著作のエッセンス的な本です。ちょっと、何か所か拾ってみましょう。 

 ミーティングの最初に、私は挨拶代わりによく「はい、こんばんは。今日も知らないより知っていたほうがいいを始めます」といったものだ。
「考えたことがないのなら1回ぐらい考えておけ。それでも罰は当たらんぞ」
そんな言葉もよく口にした。結局、そういう“考える”という行為が選手にとってエキスになっていくのだ。

 野球は身体だけを使ってやるもんじゃないんだ。ノムさんの考えがよくわかります。

 フォークにクルクルとバットが回り、簡単に仕留められている打者がいる。必死に練習して打てるように努力をしているのだが、同じ結果をずっと繰り返している。こういう打者に「一度でいいから思いきってヤマを張ってフォークを狙ってみろ。一発叩き込んだら、もう相手は怖がっておまえにはフォークが投げづらくなるんだから」と指示を出すのだ。
 もっとも最近の若い選手はこの「ヤマを張る」というのを嫌がる。なんかずるいことをするような錯覚に陥るのだろう。何も悪いことはないし、ヤマを張る=賭けなのだが、子供のときから野球一筋でやってきた選手というのは、純粋で一途な性格の子が多く、正々堂々の勝負がかっこいいと思い込んで野球をしてきただけに、なかなか受け入れてくれない。そこで私は「ヤマを張れ」 ではなく「勝負してみろ」ということにした。そうすると「勝負? よし、やってみようじゃないか」と乗り気になる。

相手を見て法を説け。ノムさんも苦労している。
選手としてのノムさんは、本塁打王9回、打点王7回、首位打者1回、三冠王1回の記録を持っていますが、ちょっと変わった記録も紹介しておきましょう。
 それは、あの足の遅いノムさんが本盗を7回成功させたこと。
 通算1065盗塁の福本が1個、596盗塁の広瀬が3個、579盗塁の柴田は本盗0。相手が油断したこともあるでしょうが、これはかっこいい。そう思いませんか。

初詣は京都 北野天満宮

考えてみれば、京都で学生時代を過ごした四年間も、年末年始は実家に帰っていたから、
京都で正月を迎えるのはこれが初めてということになります。
今年は、息子が住んでいる京都で正月の祝いをすることになりました。
いい正月でした。クリスマスあたりはずいぶん寒かったですが、この二日間は気候もおだやか。
お節も、お酒もおいしく、まんぞくまんぞくです。
元旦 初詣、北野天満宮に行ってきました。

にぎやかです。さすがに混んでいます。でも、たぶんこれはましな方なのでしょう。
行列は、止まらずに動いていますから。
屋台、いいですねえ。あらゆるものが電子化の時代ですが、ここだけはアナログそのもの。
ボクが子供のころと、それほどかわってないように見えます

思うに、ボクが見ている屋台と、孫娘が見ている屋台とは、ずいぶん違っているに違いありません。
孫娘が見ている屋台は、もっともっと、キラキラと輝いていることでしょう。

北野天満宮 祭神は言わずと知れた菅原道真公。道真は丑年に生まれ、丑年に死んだことから、
牛の像が安置されています。この牛の頭をなぜると、頭脳明晰になるとか。

さて、拝礼です。少し時間はかかりそうですが、ここに来て引き返す手はありません。

並び始めて13分で、お賽銭箱までたどり着きました。思ったより早いです。
ボクが例年お参りしている清荒神さんでは、もっと時間がかかったはずです。というのは、ここ北野さんには
振り鈴がないんです。鈴があると、それを目指して人が集まるので、どうしても時間がかかります。たぶん、
元はあったのに、それを取っ払ったのではないでしょうか。
二礼二拍手一例。がっかりしない年にしようと、誓いました。

帰り道、すさかべ庵という蕎麦屋さんで、お昼をいただきました。
ボクが注文したのは、まんまる満月そば、というもの。どういうものか、分かって注文したわけではありません。
出てきたのがこれ。ちょっと、びっくり。でも美味しかったです。

突然ですが、母さんのこと

 いま、まがり書房さんで、一箱古本市というイベントをやっています。(6月4日~19日)
わたくしKAITEKIDOも出店しています。まがり書房は狭い路地の一画にある小さな本屋さんです。
普段は1階で営業。今回は、普段はバックヤードになっている2階部分が会場になっています。
こんな感じです。出店者は全部で14人。各自ダンボール一箱分のスペースをもらい、本を持ち寄っ
て出店します。

 出店者のなかの「すずらん文庫」というお店で、青木さやかさんの『母』という本を買いました。
普段のボクの読書傾向とは違うのですが、これも出会いというものです。
 さて『母』については、またあらためて紹介するかもしれませんが、今日は(ホントに突然ですが)
ボクのお母さんのことを少し書いてみたいのです。
 考えてみれば、ボクは母の作った料理を食べた記憶がほとんどありません。家は商売をしていて、
当時は住み込みの店員さんが大勢一緒に暮らしていましたから、母はそちらの世話に忙しく、子供たちの面倒を見る暇がなかったのでしょう。
 唯一の例外は、ボクが中学生の時に、毎朝お弁当を作ってくれたことです。おかずはまあ、ありきたりのもので、玉子焼きや、タコの形に切ったウィンナや、ホウレンソウなど。ボクはけっこう喜んで食べていましたので、母もきっと楽しかったのでしょう。

 母はとてもさっぱりした性格で、「勉強しなさい」とはいっさい言わなかったように思います。
その点、青木さやかさんの母上とは正反対です。
 でも気にはしていたのでしょう。あるとき、こんなことがありました。
 中一の時でしたか、ボクの美術の成績が5段階評価のうち「1」だったのです。そのときなんと、母は血相を変えて学校にどなり込んだのです。
「うちの子が、そんな成績をとるはずがありません!」
根拠もなにもあったものではないのですが、これには、周りの方がびっくりしてしまいました。先生もよほど驚いたのでしょうね。おかげで次の期のボクの成績は「5」でしたから。
 ああ、もう一つ思い出しました。
 これは、ボクが小学生のときの写真(真ん中がボク)ですが、何かおかしなことに気づきませんか。

 ボクだけが、違う制服を着ているんです。入学の時、母が間違えて他の学校の制服を買ってきました。
これって、おかしいでしょう。他のお母さんは、誰一人間違えていないのね。それでも母は
「はい、あんたはこれでいいの」で、おしまいでした。
なんてそそっかしい、なんていいかげんな母でしょう。


 母は69歳でなくなりました。早かったですね。本を読むのも好きだったので、もう少し生きていてくれば、いい友達付き合いができたかもしれません。
 名前が同じということもあって、(おっと、母の名前は貞子といいます)沢村貞子さんのエッセイなどを
好んで読んでいましたね。

こんな写真がでてきました。どうです、なかなか美人でしょ。