相撲を見よう

大鵬と柏戸の[三段がまえ]                            

    テレビで相撲を見なくなってから久しい。見てない=知らないわけだから何とも言えませんが、テレビや新聞のニュースでチラチラ見ている限り、興味を惹く要素がほとんどありません。
 序二段まで落ちながら大復活を果たし、横綱になった照ノ富士は立派ですが、それに対抗する人がいないというのが、相撲を面白くなくしている要因だと思います。
 何といっても、ライバル同士が火花を散らす、緊張感ある土俵をこそ見たいのですから。
  ライバルといえば、ずうーっと遡りますが、1960年代は柏鵬時代といわれ、柏戸と大鵬の二人の横綱が鎬を削った時代でした。

王鵬 191㎝ 181㎏。ちなみに、大鵬の新入幕時は、187㎝ 101kgだった。       

 さて、その大鵬の孫、王鵬(おうほう)が今日新入幕を果たしました。
21歳。これは面白いんではないかい? ちょっとばかり興味を惹かれて、久しぶりにテレビ桟敷へ。

 今日の相手は、元関脇魁聖。どうなるかと見ておりましたら、あっさり勝ってしまいました。というより、相手の魁聖があっさり負けてしまったという印象です。まだ、ほんとの実力はわかりませんが、ちょっと楽しみ。しばらくフォローしようかな?

城跡一献 初日入り

本日2022年の初日の出、といきたいところですが、とてもその時間には起床できず。というのも、昨日、西さんより頂戴した大吟醸『播州一献』がことのほか美味しく、最近酒量の落ちているボクとしては珍しく、ちと飲みおすぎてしまい、朝の9時頃までぐっすり眠ってしまったわけです。
これは、初日の出ならぬ、初日の入。マンションの外廊下から、西側を望んだ景色です。

『播州一献』の醸造元は、山陽盃酒造㈱といいまして、兵庫県宍粟(しそう)市にあります。フルーティですが、いやみな甘さではなく、切れの良い食事に合うお酒です。
この辺りは、黒田官兵衛が秀吉から初めて一万石を賜った土地であるとか、資料には書いてありました。


マンションの外廊下から西空を見る。なんでもない景色ですが、この場所はボクのお気に入りです。時間と天候によって、さまざまな表情を見せてくれます。

まことひびに新たに、日々ひびひびに新たにして、又たひびに新たなり。
ということで、新年あけましておめでとうございます。

7時までやってます

すっかりご無沙汰してしまいました。 前回更新日から、なんと2か月。

 とくに理由はないのですが、ちょっと間があいてしまうと、何となく億劫になり、あれよあれよという間に、今日になってしまいました。

 さて気を取り直して、今日は、ま、軽い話題から再開いたしましょう。
現在、時刻は午後6時30分。さすがに10月半ばですから(そのわりに、いつまでも暑いですね)もう、あたりは真っ暗です。

ここは、池田城跡公園。開園してるんです。こんなに真っ暗なのに。

【開園時間 午前9時~午後7時(11月~3月は午後5時まで】

ボクは、目の前に住んでいる特権みたいなもので、時々こうやってのぞきに来るのですが、めったに他の人には出会いません。公園一人占めってところですが、ちょっとこれムダじゃないのと思ったりもします。

しかしまあ、気持ちはいいですよ。空気を、思いっきり吸えます。マスク、不要です。

今月いっぱいは7時までやってますので、酔狂な方がいらっしゃいましたら、ぜひ夜の城跡公園に。

おセイさんに、終戦のことを聞いてみる

 ボクは父や母に、戦中戦後のことを聞きませんでした。意識して避けてきたわけではありませんが、まあ興味がなかったのでしょう。こういう話を身近な人から聞いておくことがいかに貴重なことなのか、この年になって初めて気がつきました。もう、遅い。子供や孫たちに伝えてやることもできません。
 かわりに、といってはなんですが、おセイさんこと田辺聖子さんの本から、終戦とその前後の様子を拾ってみます。

『私の大阪八景』 田辺聖子 岩波現代文庫 2000年12月

 おセイさんは、1928年(昭和2年)生まれ。ボクの母貞子は1923年(大正12年)生まれです。
五つ違いですが、まあ似たような境遇にあったものと思っておきましょう。
『私の大阪八景』は、おセイさんの自伝的小説です。おセイさんは、ここではトキコという名の少女として登場します。女学校で、好きだった大場先生がある日、こんなことを言いました。



「英語を使っちゃいけないなんて、バカなことだわ、ね」
と不良少女がイイイ! をするような口つきをして、
「東条首相なんて、インク瓶にヒゲがはえたような顔してるわね。キチガイみたいなことばっかし考えるのね。キライ」
と美しい顔をしかめた。
トキコは大場先生をにらんだ。なぜ先生があの頼もしい口ヒゲの、強そうな軍人のわるくちをいうのかと悲しくなって、
「先生、親米主義ですか?」とツケツケいった。
「いいえ、なぜ?」
と先生はちょっと驚いてトキコを見た。
「そうかて、先生のいいはること、自由主義や」
「自由主義というのはどんなこと?」
「鬼畜・米英の味方するもん、自由主義や」
「ちがうちがう、自由主義というのはね‥‥まァいいわ」

 トキコは純粋培養の軍国少女でした。つまり、トキコ(おセイさん)が物心ついたときには、もう世の中の空気はかなり戦争臭いものでした。
 1931満州事変、1932国防婦人会結成、1933国連脱退、19362.26事件、1938国家総動員法など、トキコ10歳までに起こった出来事です。
 そこへいくと、ボクの母は幼年期に、まだしも平穏な時代の空気を吸っています。この五年の違いはけっこう大きいのかもしれません。

 ここでちょっと話を変えます。
 今これを書いているのは14日の夜ですが、さっきNHKスペシャル「銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ普通の人々」を見ました。
 国防婦人会は、1932年大阪港の近所に住む主婦たちが、出征兵士に湯茶をふるまったことを原点として発足しました。発足当時の会員は40人。それが2年後には約45万人に膨れ上がったといいます。
 婦人たちは割烹着を会の制服として、出征兵士の見送り、留守家族の支援、慰問袋の発送、はては国債の購入運動まで、さまざま活動をおこないました。最盛期には、会員数一千万人近くになったそうです。
 なぜ女性たちは、これほどに活動にのめり込んだのか?

国防婦人会の女性たち。割烹着にたすき掛けが、会服だった。

 女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会は「社会参加」の機会だった、と番組ではとらえています。
 家にあっては、嫁は夫や姑に絶対服従を強いられた時代、外に出て、同世代の仲間たちと語り合い、「社会の役に立っている」と実感することは、大きな喜びだったに違いありません。

『楽天少女通ります』田辺聖子 日本経済新聞社 1998年4月

 人は、ちょっとしたきっかけで、どっと同じ方向に走り出すことがある。そして、その背景にあるもの‥‥なかなかに、考えさせられる番組でした。 

さておセイさんに話を戻します。今度は『私の履歴書~楽天少女通ります』から。 
 ときは1945年(昭和20年)、おセイさん17歳になっています。
 この年、3月13日、第一回の大阪空襲が行われました。
 その直後、町内会長であるおセイさんの父の元に町内の男たちが集まりひそひそと話し合っています。

 <防火砂、火叩き、バケツ、あんなオモチャが何になりまんねん。焼夷弾が落ちる合間にどかーんと、今度は爆弾やよってな。>
 <そこへ機銃掃射でやられるらしおます>
 と、口コミの情報は早かった。
 <こら、もう、あきまへんデ。日本、バンザイでんな>
 というのは降伏という意味。
 <あない敵機来る、ということはこっちの飛行機が無うなった、ということや。高射砲は中らへんし、日本の軍隊も頼りないことわいな、威張るわりには力おまへんがな>
 とお巡りさんが聞いたら<ちょっと来い>といわれそうなことを放言する人。ニセの診断書を徴用先の工場に提出してさっさと田舎へ逃げる要領のいい人もいたが、みながみな、小器用にたちまわれたわけではなく、楽観的な父が、
 <この裏まで焼けたんやから、もうここらは空襲来まへんやろ>
というのへ、そうでんな、とはかない空だのみしか、すがるものはなかった。

 ここに集まる男たちは、柔軟というか、ええかげんというか、現実的というか、要は町のおっちゃんです。
 戦時下にあっても、住む場所、境遇、ちょっとした時間のずれなどで、いろんな考えの人が存在するということは、心にとめておいてもいいかもしれません。

 さて次は玉音放送の場面です。長くなりましたので、これで終わりにします。もう少しお付き合いください。

 終戦の詔勅の放送はその尼崎の家で、一家五人が聞いた。祖母は疎開していた。
 はじめて聞く<現人神>の肉声は異次元からの合成音のように浮世離れしており、その上、漢語が多くて理解の外だった。父と母は、
 <降伏、いうてはるのやないか>と顔を見合わせあい、私と弟は、
 <そんなことはない、絶対、一億みな全滅せよ、いうてはるのや、最後の一戦、いうてはる>と力んだが、しかし詔勅の内容はそうではない方向へ、どんどん逸れていくようである。そのうち、
 「堪へ難キヲ堪へ、忍ビ難キヲ忍ビ」
 でわたしもさすがに事情を理解した。日本は、まえに父たちが危惧していたごとく、<バンザイ><お手上げ>をしたのである。そのことよりも私は、実在であって実在でないような<現人神>の肉声を聞いてしまったことが、取り返しがつかないような痛恨であった。陛下は現身を持つかたでいられたのだ。

  玉音放送の場面は、テレビでもしばしば出てくる。皇居前広場で正座をして涙を流す人たちの映像もよくあらわれる。
 ボクの父や母はどのように聞いたのだろう。
 そのことさえ、聞いたことがない。  

ひろしま HIROSHIMA

 妻恵子は、いつもこの日の朝、黙祷をささげていました。
恵子のお母さんは広島出身で、女学校を卒業したばかり16歳で富山の父の元に嫁いだのでした。

原爆ドーム螺旋階段で遊びし少女母は八月六日三日前に嫁す

 原爆投下の三日前、一人汽車に乗って富山に嫁いだのだといいます。
「運命」を感じさせるタイミングでした。あと三日遅れていたら、恵子とその姉妹たちは生まれていなかっただろうし、恵子はボクと出会うこともなかった。ボクたちの子供たち孫たちもこの世にいなかったことになります。

祖父よあなたは見たのでせうか 蒼空に光る落下傘を その日の朝に

 しかし、お母さんの父親と弟が原爆の犠牲になりました。恵子の黙祷は、こうしたいろいろな思いがこもったものでした。

『ひろしま』石内都 集英社 2008年4月

さて、この石内さんの写真集も、もちろん恵子のライブラリー。

石内都さんは、母の遺品シリーズ「Mother’s」などで有名ですが、モノを撮る写真家です。石内さんがシャッターを押すと、資料としてのモノが、人が生きた証としてのモノに蘇ります。

広島平和記念資料館には、約1万9千点の被爆死した人の遺品と被爆した品物が保管されています。石内さんは、その中から、肌身に直接触れた品物を中心に選んで撮影しました。

原爆ドーム天蓋のなき聖堂に似てひしひしとわれを捉へり

現身のあまたの腕空を搔き苦悶に震ふ音叉となりぬ

エノラ・ゲイ蘇り来てあるといふスミソニア博物館は海を隔てつ

 今年で、76年。記憶は薄れていきます。
出来事を直接知る人も、もうほんとうに少ない。
大切な原稿をすっ飛ばして読んだ人もいるそうです。
ほんのわずかな手がかりであっても、記憶をエピソードとして記録しておくのもよいかと思います。
黙祷

(掲載歌はすべて恵子作です)

松ヶ崎で、慶喜と栄一が‥‥そうだったのか

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、オリンピックのためしばらくお休みですが、なかなかがんばっていますね。
 ドラマ前半で話題になったのが、一橋卿(のちの将軍)慶喜を演じる草彅剛。そして、堤真一演じるところの平岡円四郎という人物です。

高貴な血を引く聡明な主、無骨者で十五歳も年上の家来。変わり者の二人の気が妙に合った。

 幕末で、わかりにくい正体の知れない人物といえば、まず西郷、そしてこの慶喜ではないでしょうか。申し分のない血筋の良さ、知力、胆力、しかし人からは容易に心の内を覗かせない複雑な人物。これに草薙剛のキャラが、なんとピタリとはまったのです。今まで見た慶喜の中でもっとも意外、なのにもっともそれらしい。キャスティングの妙ですね。

 平岡円四郎の方は、キャスティング(堤真一)もいいですが、円四郎そのものが面白い。
 実はボク、この人のことを知りませんでした。ほんとにこんな面白い人がいたのかな? そこでハッと思い出したのです。司馬さんならどっかに書いてるかもしれない。
 なあに、簡単でした。『最後の将軍』がありました。

御三家の一つ水戸家に生まれ、のち十五代将軍として、みずから幕府を葬り去るらねばならなかった慶喜の活動を描く。
『最後の将軍』 文春文庫 1974年6月 司馬遼太郎

 さっそくページをパラパラっと捲ってみると、出てきました、平岡円四郎の名前。前に読んだとき(奥付によると1990年)気にもとめなかったんですね。慶喜が水戸家から一橋家へ養子に入った時、慶喜の父斉昭が「誰か硬骨で学問のある近習はいないか」といい、円四郎が召し出されたのでした。

こんな面白い人がいたとは。(堤真一ぴったり)慶喜の信任あつかったが、1864年水戸藩士により暗殺される。

 性、質朴で学問を好み、英才もある。ただ動作がいかにも粗野で、その上他人との交際を好まず、目上の者の屋敷にうかがってもお辞儀ひとつできぬ男だった。

円四郎は、「自分の柄ではない」と、この話を断りました。しかしこれを聞いた斉昭は、その欲のなさに感服し強いて請けさせたのです。

 平岡は、食事の給仕をせねばならない。無骨な手つきでめしびつをひきよせ、杓子をとり、椀をとったりしたが、どうもうまくゆかず、飯がこぼれたりした。
「円四郎、給仕のしかたを知らぬのか」
 慶喜は、気の毒そうな表情で年上の家来にいった。言うだけでなく平岡の手からひつをひきよせ、杓子と椀をとりあげ、給仕のしかたはこうするものだ、とていねいに教授した。どちらが近習であるのか、他人がみれば見当を違えるであろう。
(なんという殿か)
 平岡は冷汗をかきつつも、仰天するおもいだった。

顔が、というのではない。似ているというのではなく、「つかみどころがない」という雰囲気を持っている。草彅剛の慶喜。

辞儀ひとつできなかった男は、やがて慶喜の知恵袋と言われるまでに成長してゆきます。

さて、話を飛ばします。そして、端折ります。

渋沢栄一です。渋沢の家は半商で、藍玉を商い、近郷で屈指の富家でした。栄一二十四歳。攘夷論にかぶれ、近郷の若者を集め、横浜の開港場を襲い、異人を殺戮しようという計画を持っています。その栄一が、平岡円四郎のもとを訪ねました。(挙兵のためには、一橋家の暗々裡の後援をとっておきたい)と考えてのことでした。円四郎はこれを聞いて驚きますが、この血気盛んな若者を「手に入れたい」と思いました。

円四郎は栄一に、正式に一橋家に仕官するよう勧め、慶喜にも会わせようとしました。ただし、農民という身分上、正式にお目見得は許されません。
 そこで、円四郎は栄一に知恵を授けます。毎朝慶喜が調馬に出るときに、途中の道で待ち伏せ、走り出て名乗りをあげよ、というのです。
 ボクはドラマでこのシーンを見たとき、こりゃ絶対テレビ用のエピソードだと思いました。だって、これはまるで日吉丸みたいじゃないですか。

ところが、『最後の将軍』にちゃんと書いてあるんですね。

 渋沢は、いとこの喜作とともに未明から藪の中にひそみ、慶喜一行の来るのを待っていたが、やがて東天が白むとともに地をゆるがすような馬蹄のとどろきが聞こえ、渋沢らは走り出た。が、一行は駆け過ぎた。
(御馬の疾いことよ)
二度しくじり、三度目はこの騎馬団のあとを懸命に駆けた。護衛隊がさわぎ、ひきかえしてきて渋沢らを取り籠めた。渋沢は刀を鞘ごと抜いて地に捨て、両膝をつき、慶喜の方角を拝した。慶喜は手綱を引き、引きつつ鞭をあげて渋沢らをさしまねいた。その姿は、渋沢の目には眩むほどにかがやいてみえ、文字どおり歴史のなかの千両役者であるように思えた。渋沢らは夢中で近づき、夢中でなにかを言上した。自分では平素考えている時勢論を懸命に喋ったつもりであったが、なにをしゃべったのか、あとになっても思い出せない。終わって慶喜はすこしくうなずき、
「円四郎までよく申しておく」
 と言いすて、馬首をめぐらせて去った。

 司馬さんが書いているから史実だとは限らないわけですが、どうやら本当にあったことのようです。言い忘れてましたが、このとき慶喜は将軍後見職で京都在住。そしてこの、渋沢との出会いの場所は松ヶ崎です。

 松ヶ崎。
実はボクが学生時代、三年間下宿していた場所が松ヶ崎なんです。
へえ~、そうかあ、あそこを馬でね。渋沢が追っかけて‥‥
 これだから、歴史は面白いんだよね、
とひとり悦に入っているボクでした。

昼寝

 今日、昼寝をしました。この3年間で、つまり一人暮らしをはじめてから、初めてのことです。
 机の前で、コトンコトンと居眠りをしているのは、しょっちゅうなのですが、ちゃんとベッドに横になってということはなかったのです。

 なぜ昼寝をしなかったかというと、うっかり寝てしまうと、このまま起き上がってこなくなるような‥‥、そんな気がしたものですから。
 今日は、朝から運動に出かけまして、昼過ぎに汗びっしょりになって帰ってきました。それでもしばらくは机に向かって作業をしていたのですが、さすがにこれはたまりません。
 午後4時半くらい、睡魔に誘われるままに横になり、目が覚めると7時近くになっていました。
 いやあ~、甘露、甘露。爽快です。
 ビールの旨いこと! こんな贅沢があっていいものでしょうか。
 あらためて、昼寝の気持ちよさに目覚めた、という思いです。

1379年前の相撲見物

秋七月の甲寅の朔壬戌に、客星月に入れり。乙亥に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗たまう。乃ち健児に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹岐が門を拝す。

 これは『日本書紀』皇極天皇の元年(642年)の記述です。
 壬戌 は 二十二日。
 つまり、いまから1379年前の 七月二十二日。百済からの使者智積(ちしゃく)と、百済の王族で日本に亡命中であった翹岐(ぎょうき)をもてなす席で、健児(ちからびと)たちに相撲を取らせた、というのです。
実はこれが、日本で相撲という言葉が現れる最古の文献です。 

角抵塚壁画。中国吉林省集安県

 『力士漂白』の宮本徳蔵氏によれば、相撲は二、三世紀頃、アジアの北辺、現在の地図でモンゴル共和国のあたりで生まれたのではないかとのこと。(もちろん、相撲という言葉もルールもまだない)それは、やがて東へ西へと彷徨を始め、五世紀はじめには古墳の壁画となって出現します。
  ここは、高句麗古墳の角抵塚。現在の、中国吉林省集安県。二人の力士がはげしく取り組みあっている。右側には、行司のような老人。

角抵塚 のすぐお隣にあるのが、舞踊柄。ここの壁画は、おお、なんとこれは「三段がまえ」です。
「三段がまえ」こそは、相撲の技術のすべてを含み込んだといわれる、型の精髄なのです。
 写真は、1985年1月横綱千代の富士と北の湖による「三段がまえ」。どうです、そっくりでしょう。

7月19日(日)大相撲名古屋場所、千秋楽。白鳳、照ノ富士全勝対決を白鳳が制して、45回目の優勝を勝ち取りました。
 この相撲は、ニュースで見ました。白鳳の相撲は何かと批判があるところですが、今回に限り両者ともに立派であったと、ボクは思います。「いまの力のすべてを出し切ろう」そういう気持ちが出ていたと思います。白鳳、照ノ富士ともに、どん底からのグレート・リカバリーです。「よくやった」

 いつの間にか、オリンピックは始まっています。アスリートたちのことを考えれば、5年間磨き上げた技・力・心を存分に発揮できるよう、無事・スムースな進行を願わずにはいられません。
 もちろん、終わりよければすべて良し、ではないですが。

1993年9月 新潮社 長谷川明
1985年12月 小沢書店 宮本徳蔵

山椒魚と高杉先生

 
 ボクが中学二年生のときです。
国語の高杉先生が、井伏鱒二の『山椒魚』を朗読してくれました。

山椒魚は悲しんだ。
 彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。今は最早、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなったが、彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
「何たる失策であることか!」

たしかこんな顔だった。高杉先生を思い出しながら描いてます

 ざわついていた教室は、いつの間にかしんと静まりかえっています。

 あるとき、一匹の蛙が岩屋の中に迷い込んできます。山椒魚は、自らの身体で岩屋の出口を塞ぎ、蛙を外に出してやりません。二匹の生物は、こうして激しい口論を始めます。そして、あのラストシーン。
 実はボクは、話の全体としては、いまいちよくわからなかったのですが、このラストのところだけは感動しました。 山椒魚は、蛙に聞きます。

「それでは、もうだめなようか?」
相手は答えた。
「もうだめなようだ。」
よほどしばらくしてから山椒魚は尋ねた。
「おまえは今、どういうことを考えているようなのだろうか?」
相手はきわめて遠慮がちに答えた。
「今でも別におまえのことを怒ってはいないんだ。」

新潮文庫 1948年1月

 大人の読み物なんかに興味がなかったボクが、小説も面白そう、と思うようになったのは、この高杉先生の朗読がきっかけです。
カリキュラムに沿ったものだったのか、高杉先生のアドリブだったのかはわかりませんが、ボクはいまでも高杉先生に感謝しています。  

 ところで、七月十日は鱒二忌です。
 井伏鱒二、たいへんに面白い作家です。もう少し見直されてもいいのではないでしょうか。

 直木賞をとった『ジョン万次郎漂流記』、後年原爆を扱って話題になった『黒い雨』もいいですが、ボクとしてはまずユーモア系の四作品をおすすめしたいと思います。

『本日休診』『駅前旅館』『集金旅行』『珍品堂主人』

 一癖も二癖もありそうな、それでいてどこか抜けていて憎めない、そういった人たちが登場します。
 井伏独特のユーモアとペーソス。そして、うん、やっぱり皮肉屋さんなのかな。これがあるから、甘すぎない、少々アルコールも仕込んだ大人のスイーツに仕上がっています。
 『駅前旅館』は、森繁久彌主演で映画化され、東宝の名物シリーズになっていますね。

豆腐 七丁

 京都に住んでいました。ボクが大学生のときです。
学校の一年先輩で、Y子さんという人がいました。どういうわけか、ちょっと気が合ったのでときどき話をしていました。
 えっ、男女の関係? いえ、この人はそういうのとは、ぜんぜん縁がない感じの人で‥‥と思っていたのは、実はボクだけだったということを、もうすぐ知ることになります。

 あっ、そうだ、思い出した。ボクがY子さんと親しくなったのは、実験の手伝いをしていたからでした。Y子さんは心理学の実験のため、ラットを飼育していました。
 ケージの中に入れられたラットは、どれがどれだかわからないので、識別のために、耳にハサミでチョンとカットを入れます。こうして、「右耳ふたつカットちゃん」とか、「左耳V字カットちゃん」などと呼んで、区別していたのです。ボクは、その手伝いをしていました。
 さてあるとき、ボクが豆腐好きだということをY子さんに言ったことがあります。すると、Y子さん、
「あら、わたしもよ~。よしっ、明日の夕方うちにいらっしゃい」 
Y子さん、とても強引なところがあります。

 Y子さんは、四条烏丸(たしか)の古い町屋を借りて住んでいました。「旨い豆腐だぞ~。さっ、食べよ」
 食卓には、湯豆腐の用意が。土間には、水を張ったバケツの中に、豆腐が浮いています。

「何丁あるの?」
「いちおう、七丁買ってきたよ。おぬし、食えるな」 

 うー、一人三丁半かあ。さすがに、これだけ食べた経験はありませんが、なんとかなるでしょう。野菜も鶏肉も椎茸も、何にもなし。文字通りの、湯、豆腐です。
 四丁目までは、快適にとばしました。お酒も、一升瓶を用意してくれましたが、三分の一くらいは空いています。五丁目くらいから、ペースが落ちました。

「わたしね、パンツ2枚しか持ってないのよ~。だから、毎日洗って一日交替ではいてるのよ~」
 Y子さん、聞きもしないのに、変なことをしゃべりだします。
「洗うのは、ほらあのバケツよ~」と、
あと豆腐が一丁残っているバケツを指さしました。
え~、Y子さん、そりゃないよー。

 そのときです。
「ただいま~」ガラガラっと、表の引き戸が開いて男の声。
「あっ、わたしの相方が帰ってきたわ」
え~、そんなの聞いてないよー。

「おー、キミ来とったのか」
 見ると、ボクもよく知っている大学の講師のWさんでした。
「こ、こんばんは。おじゃましてます」と声を出すのが、精一杯。
(後で知れたことですが、Y子さんとWさんは、このとき婚約中で、すでに一緒に暮らしていたのでした)

「ちょうどよかった。豆腐、買ってきたぞー」